帯文が「二〇世紀の破局を二人はどう生き、そこに何を見たのか。「二一世紀の全体主義」に警鐘を鳴らす友情の記録」とうたっているように、本書はハンナ・アーレントとハンス・ヨナスの生涯を、二人の交わりを視野に入れて追いつつ、それぞれの思想を描いたものである。
内容を見ると、第1章から第6章までが、アーレントとヨナスそれぞれの伝記的記述であり、第7章がアーレントとヨナスの思想の今日的意義を戸谷さんと百木さんがそれぞれ論じている。また、プロローグ(戸谷さん執筆)では「全体主義」と「テクノロジー」に焦点を当て、アーレントとヨナスの思想を紹介し、それを受けるようなかたちで、エピローグ(百木さん執筆)では「テクノロジー的全体主義」という概念が提示される。以上のような構成は、本書に対する理解、つまりはアーレントとヨナスの思想に対する理解を促すものとなっている。
そして、アーレントの「漂泊」生活と、ヨナスの「戦場」経験が、それぞれの思想に影響を与えているという点は興味深く、二人の思想を読み解く上で参考になる。また、第4章は「アイヒマン論争」のわかりやすい解説にもなっており、本章を読んだ後には、映画『ハンナ・アーレント』を観るのが楽しみの一つになるだろう。
本書はアーレントとヨナスの思想を比較検討するという視座のもと、それぞれの生涯が描かれているが、私が気になったのは思想の違いだけではない。ヨナスに対する記述は、アーレントの記述と比較すると、あまりに「私的なもの」に思えるのだ。例えば、アーレントとの「恋バナ」的エピソードは、読み物としては面白いかもしれないが、二人の思想を考察する上での重要性はあるのだろうか、という疑問が浮かぶ。
一方、そのような「私的なもの」が、ヨナスの思想を読み解くためのキーワードの一つかもしれないと思わせるのが次の記述である。
ヨナスにとってシオニズムという政治的な「公的領域」への責任よりも、子どもという家庭内の「私的領域」への責任が、より重要になっていった(120)
かつて政治という「公的領域」に無関心であったアーレントは、後に政治意識を高めて「公的領域」への関心を強め、かつて政治という「公的領域」に「目を光らせてもいた」(43)ヨナスは、後に「私的領域」への責任を重要視するようになる。この「公的領域」と「私的領域」との転回を描いている点も本書の魅力の一つである。