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百木漠『嘘と政治-ポスト真実とアーレントの思想』

 百木漠『嘘と政治-ポスト真実アーレントの思想』は、タイトルが示すように、森友学園問題や加計学園問題、自衛隊の日報破棄・隠蔽問題等といった、近年の「嘘と政治」を巡る状況について、ハンナ・アーレントの思想を手がかりに考察したものである。『アーレントマルクス-労働と全体主義』がそうであるように、百木さんの思想史研究には現代社会に対する批判的まなざしがあり、本書においてもその鋭さが存分に発揮されている。
 百木さんは、アーレントの「伝統的な嘘」と「現代的な嘘」の区別から、近年の公文書・統計問題が前者の嘘だけではなく、後者の嘘を含み始めており、ここに全体主義への兆候があることを指摘している。「伝統的な嘘」は「為政者が真実を隠蔽するというかたちで行われるもの」(44)であるのに対して、「現代的な嘘」は「現実の世界を否定し、それに代わる虚構、あるいは「別のリアリティ」を作り出し、そのイメージのうちに住まおうとする」(45)ものである。この現代的な嘘の特徴によって、事実と虚構の区別が無くなり、<真実への信>が捨て去られることになる。そして、このポスト真実的状況においてこそ、全体主義が生じることになる。
 ここで重要となるのが、ポスト真実アーレントの思想との関係である。百木さんは次のように問いかける。

意見と真理、政治と哲学を鋭く対立させ、峻別するあまり、政治の領域から普遍的な真理を追い出してしまうアーレントの思想は、図らずも、真理を蔑ろにした政治を展開する「ポスト真実に」接近してしまうようにも見える。そうであるとすれば、ポストモダン思想と同様に、アーレントの思想はむしろポスト真実的状況を後押ししてしまう…可能性があるのではないか?(75)

しかし、この接近可能性を論じることにより、ポスト真実アーレントの思想との差異が明らかになる。ポスト真実が事実・真理を無視しているのに対して、アーレントは政治と真理の境界を尊重しつつ、揺るぎない真理により政治の領域が制限されていることを強調している。「真理はわれわれが立つ大地であり、われわれの上に広がる天空である」(87)というのだ。
 そして、「嘘」と「活動」は新たな「始まり」をもたらすという点で密接に関連しているが、「始まりのための嘘」は「われわれの立つ大地としての「世界」を破壊するものであってはならない」(113)。つまり、「世界を変えるための「嘘」、あえて現実とは異なる「夢」や「理想」を語る嘘においても、つねに「事実の真理」への尊重がなくてはならない」(114)ということである。
 この「政治の外部」としての事実や真理を尊重する態度こそが、現代のポスト真実において破壊されていると百木さんは指摘する。そこで重要となるのが、「紙の公共物」(178)としての公文書の次のような役割である。

官僚が記録し保存する公文書なども、こうした「政治の外部」と「政治の内部」の境界に位置するものだと理解することができるだろう。公文書は政治過程を記録し、保存するという意味において「政治の内部」に位置するが、そうして記録された文書が、「政治」を境界づける「真理」を担保する役割を担うようになるという意味では「政治の外部」にあると見ておくことができるだろう。(179)

「官僚の仕事=作品としての公文書」が、真理と政治の境界を生みだし、政治を制限することで、われわれは「複数性と偶然性に開かれた、自由かつ予測不可能な「活動」へと乗り出していくことができる」(183)のだ。
 さらに、「哲学者・科学者・芸術家・歴史家・裁判官・目撃者・報告者」といった人々も、「事実を記録・報道し、それにもとづいて真理(真実)を探求する役割を担っている」「仕事人」である(193)。ポスト真実に抗うためには、次の指摘のように、彼らの「仕事=作品」を土台として、そこから「活動」を始める必要がある。

こうした専門家たちの「中立的な仕事」によって「公共物」を創り出し、その公共物をめぐる政治を実践していくことによってこそ、「共通世界」および「共通感覚」を再建し、ポスト真実的な分断を乗り越えた「複数性の政治」を実践していくことが可能となるのはないか。そのためには複数性を実現する「活動」の前にまず共通性の前提を整える「仕事」の役割を再評価すべきだというのが、本書における一つのささやかな提案である。(207)

 百木さんは「思想史研究の立場からできるのは、過去の思想家の言葉を紹介しながら、われわれが進むべき道筋を構想するヒントを示すことぐらいであろう」(210)と語る。まさに、今必要なのはこの「構想するヒント」を示してくれる「知」ではないだろうか。ポスト真実に対抗するために、多くの人が「本書=作品」を通じて<真実への信>を取り戻し、新たな思考が始まることを期待したい。

嘘と政治: ポスト真実とアーレントの思想

嘘と政治: ポスト真実とアーレントの思想

  • 作者:百木漠
  • 発売日: 2021/04/24
  • メディア: 単行本