東浩紀は、『存在論的、郵便的』において、アルチュセールの「唯物論的伝統の地下水脈」は、「郵便的思考の哲学史を指すものと解釈できる」(141)と指摘している。以下、「郵便的思考の哲学史」を理解するため、「出会いの唯物論の地下水脈」のメモ。
まず、アルチュセールは、エピクロス、スピノザ、マキァヴェッリ、ホッブズ、ルソー、マルクス、ハイデッガー、そしてデリダの名を挙げている。そして、この流れの中に「不確定なaléatoireもの、偶然性contingenceの唯物論」という「出会いの唯物論」を(アルチュセール『哲学・政治著作集Ⅰ』500)を見出す。「哲学は…ものごとの<理(ことわり)>と<起源>をいい表したものではなく、それらの偶然性contingenceについての理論となり、事実を、偶然性という事実、必然性が偶然性に従属している事実、出会いの効果に「かたちを与える」かたちという事実を承認することになる」(502)ということだ。
そして、「出会いは起きないことも、あるいは起きることもありうる」(505)、「出会いは起きないかもしれず、起きるかもしれない」(507)、「どんな出会いも、起きたにもかかわらず、起きなかったかもしれず」(527)というように、「不確定性l'aléatoire」(519)を繰り返し述べている。「この哲学は世界の一種の超越論的偶然性contingence」を復活させる光景へと、視界を「開く」」(503)のである。
別の言い方をすれば、成し遂げられた事実の現実性はその事実の永続性を保証している、などと保証してくれるものはどこからも到来しないのである。まったく逆であり、どんな成し遂げられた事実も、たとえそれが選挙の結果であろうと、また、必然性と理を取り出せるどんなことがあっても、その場限りの出会いにすぎない。なぜならどのような出会いも一時的であり、持続するときでさせ、世界と国家の「法則」に永遠はないからである。(507)
アルチュセールはこの哲学を「空虚の哲学」(507)として、「この伝統は、<全体>とあらゆる<秩序>を拒否して、散逸(「散種」、とデリダは独特の語法でいうだろう)と無秩序を前面に出す」(522)と指摘している。さらには「出会いの唯物論は否定性に対する肯定性の優位(ドゥルーズ)」(523)とも述べる。
東浩紀が唱える「確率的誤配可能性」(『存在論的、郵便的』134)も、この水脈に連なるものであろう。それにしても、『存在論的、郵便的』は「注」で取り上げられている議論も面白い。