yamachanのメモ

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櫻田淳「普通の国」になればまた出番がやってくる(『論座2005.7』)

櫻田氏は「保守派」と「リベラル派」との対立の焦点を、「近代国家の枠組み」に依拠して説明している。

保守派は近代国家としての枠組みが敗戦と占領によって著しく損傷されたと考え、この「損傷」の修復を問題意識の中心においてきた。その修復の具体的な内容は、憲法9条に象徴される軍隊の位置づけの是正、安全保障法制の整備、靖国神社参拝や歴史教科書の扱いである。

一方、リベラル派はそのような修復作業とは関連しない、例えば地球環境の保全、人権の擁護、途上国における貧困や感染症拡大の問題に関心を寄せてきた。さらに、これらの課題に対して、「近代国家の枠組み」で直接縁を持たないNGOや市民団体の役割の協調してきたのである。

ここで櫻田氏はスタンリー・ホフマンの「国境を越える義務」を取り上げ、この課題に対してこそリベラル派の議論の真価が問われる、次のように指摘する。

戦後、久しい間、保守派が自由民主党政権に近い位置を占めてきた事情から、リベラル派は、その時々の政権に対して批判や対抗論理を示す意味合いで、…「国境を越える義務」に関わる諸々の課題に取り組む意義を強調した。けれども、リベラル派に要請されるのは、こうした課題への実質的な処方箋を適宜、用意していくことである。(27)

つまり、「リベラル派にも、「現実主義」の思考が要請され」、「「何をなすべき」ではなく「何ができるか」、がリベラル派からも示されなければならない」(29)ということである。

2022年の今、リベラル派は「近代国家の枠組み」と適切な距離を置くことができているのか、「現実主義」と向き合うことができているのか、これらのことについて再考すべきである。