yamachanのメモ

日々の雑感や文献のメモ等

山口尚『日本哲学の最前線』

 本書は國分功一郎、青山拓央、千葉雅也、伊藤亜紗、古田徹也、苫野一徳の思想を取り上げ、「J哲学」という日本哲学を論じている。「J哲学」について、著者は次のように述べる。

「J哲学」と呼ばれる日本哲学の最前線は≪日本的なものを哲学に取り入れるぞ!≫などの志向をもたない。むしろ、「輸入」と「土着」の区別を超えて、限定修飾句なしの「哲学」に取り組むのがJ哲学である。そしれそれがたまたま私たちの言語である日本語で行われるために「J」が冠されているのである。(5)

 そして、J哲学の2010年代は「自由のための不自由論」(4)として特徴づけられる。「真に自由になるために、私たちを縛るものと向き合う-これがJ哲学の旗手たちの取り組んできたことだ」(8)、と。

不自由論は人間的自由の否定に終始しない。むしろ、不自由論が<人間の不自由>を
強調するのは、≪自己の不自由を直視することが真の意味で自由になることへの道だ≫という信念のゆえである。それゆえ不自由論は一種の自由論だと言える。ただしそれは不自由に媒介された自由論なのである。(167)

 このような視座から各思想家が論じられることで、それぞれの思想の個別性が明らかになるとともに、思想間の関係も見えてくる。私たち読者は、いつの間にか「共鳴空間」(15)へ招かれているのだ。
 本書で取り上げられている思想家が魅力的に思えるのは、この「自由のための不自由論」という精神が通底しているところが大きいが、それだけではない。それぞれの思想家の探求が実践的でもあるからだ。そして、「多かれ少なかれ<しっくりいく表現を求めて迷う>という試みに参与している」(163)という探求のプロセスが見えてくるからだ。さらに、それぞれの思想家は学問分野を越境し、理論と実践をも越境している、これもまた魅力の一つであろう。
 このような「J哲学」の魅力から、著者の次の発言に大いに賛同する。

J哲学の不自由論は或る種の「変革」の推進力をももつ、と私は考える。これは人間社会がその中に蔵する変革のポテンシャルへの私の期待の表明でもある。私たちの社会よ、私も努力するので、汝も生成変化せよ!(206-7)

 本書を読むと、自己・他者・社会への認識が変化するだろう。この認識の変化は実践の現場でも役立つものであり、人びとの生き方や社会を変えうる。変革のために必読の一冊である。