yamachanのメモ

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山崎望[編]『民主主義に未来はあるのか?』

 「民主主義に未来はあるのか?」-本書のタイトルになっているこの問いに対して、時間と空間、そして学問領域を超えてアプローチする野心的な一冊である。このような横断性を有する著作は、まとまりの無さ故の読みづらさという欠点を持つこともあるが、編者の山崎望氏が序論で論じている自由民主主義の定義と、三つの歴史的位相を軸とした本書の構成の説明が、「まとまり」と「見通し」を読者に提供している。まずは、序論から順番に読み進めていくことをオススメする。
 本書を通読して、個人的に興味深かったテーマは「熟議」と「代表制」である。第5章で内田智氏が「正当化実践としての熟議が「迂遠ではあるが避けることのできない」プロセスである」(157)と指摘しているように、また、第4章で松尾隆佑氏が「二重に越境的な代表制デモクラシーの構想」(127)を描いているように、民主主義において「熟議」と「代表制」はそれぞれ重要なものである。また、第1章で、早川誠氏が「代表制と熟議が排他的関係にならずにすむような制度設計の工夫の余地は、いまだ尽くされてはいない」(47)と指摘しているように、「選挙による代表制度に基づいた熟議」という視座も重要である。しかし、この「熟議」と「代表制」のそれぞれの磁場の強さに目を向ける必要があるのでないか。本書はこの問いにも答えている。
 まず、「熟議」の磁場の強さに対して批判的な視座を向けるのが、第8章の山本圭アゴニズムを制度化する」である。山本氏はアゴニズムの制度化を論じつつ、制度化の方向性が熟議モデルに依拠していることを指摘している。「アゴニズムの過剰な部分は切り捨てられ、安定と持続性に都合のよい部分のみが、いささか恣意的に選択されている」(238)ため、熟議的な制度論との差異が曖昧になっているのである。山本氏は、このような状況に対して「現代アゴニズムの理論は、アゴニズムの荒々しい部分をこそ制度化し、形式化する必要がある」(239)と指摘している。このような熟議の制度論との違いに注目したアゴニズムの制度論の更なる展開を期待したい。
 また、「代表制」の磁場の強さに対して批判的な視座を向けるのが、第7章の大竹弘二「代表制民主主義の危機と戦闘的民主主義」でる。大竹氏は、「戦闘的民主主義」の検討を行い、過激主義を民主システムの制度的中心からは排除しつつ、市民社会の領域では包摂するという二重戦略を提起し、次のように述べる。

戦闘的民主主義の役割はあくまで限定的であり、実体主義的に理解された民主的価値やその制度を戦闘的に防衛する措置は、すべての市民の平等な参加に基づく手続き的な民主主義の実践によって支えられていなければならない。民主主義防衛は結局のところ、単なる代表制システムに尽きることのない民主主義のそうした潜在力を信頼することでのみ成功するだろう。(217)

このように、「代表制」の磁場から離れることで民主主義の潜在力を見出し、民主主義の危機を乗り越えようとする大竹氏の構想は、思想的・実践的に注目すべきものであろう。
 また、「代表制」をめぐる葛藤を描いた、第10章の富永京子「現代のアクティヴィズムにおいて「代表」は機能しているか」も重要である。「代表」から「こぼれ落ちてしまう」女性が「代表」される段階に注目しつつ、その段階においても周縁化される女性の葛藤を分析する富永氏の論考は、社会運動においても代表され得ない女性を描くことで、私たちの日常を見つめ直す契機を与えてくれる。
 もちろん、本書の面白さはこれらの論点に尽きることは無い。自由民主主義の「他者」や「敵」を考える上では、第2章の森政稔「戦後日本の政治学と二つの民主主義」、第6章の板橋拓己「現代ドイツの右翼ポピュリズム」が参考になる。また、「政治の領域」という観点からは、第3章の小川有美「ポストナショナルな経済危機と民主主義」、第9章の山崎望「自由民主主義とBLM/右派運動」が参考になる。
 「民主主義に未来はあるのか?」-その答えは自分自身と他者、そして民主主義自身と民主主義の他者と向き合えるかどうかで決まる。民主主義の未来のために必読の一冊である。