yamachanのメモ

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ヤン=ヴェルナー・ミュラー『民主主義のルールと精神-それはいかにして生き返るのか』

 民主主義の「本来の原理に立ち返る」、かつてマキャヴェッリがそう促したように、ヤン=ヴェルナー・ミュラーは本書で民主主義の「原理」-「一昔前の政治思想家なら精神と呼んだだろう」(8)-を示そうとしている。ミュラーは次のように述べる。

人が正しい道理だと信じていることを完全に変えることができるとは思えない。けれど人の置かれている環境や、そこに示されている選択肢を変えるのはどうだろう。別の言い方をすると、民主主義の大切なインフラを変えることである。そのためには、民主主義の根底原理もっとしっかり理解する必要がある-そう、「本来の原理に立ち返る」のだ。(53)

では、民主主義の原理とは何か。まず、平等と自由が民主主義の前提にあり、諸制度はこれらの原理に基づく限りにおいて正当化される。ミュラーは「民主的な人々としての人民」には、「個々の集団が平等や自由の原理に沿った生き方の実現に力を注ぐという前提」(57)があるとも指摘している。
 また、民主主義には「意思決定のための特定の場」と「社会全体おける意見形成のための場」という二つの場ある。そして、この民主主義の二つの側面はつながっており、仲介機関、特に政党とメディアが必要とされる。この仲介機関は幅広い人々にとってアクセス可能であり、自律的であると同時に評価可能なものでなければならない。このアクセス可能性と自律性は民主主義の基本原理に根ざしており、また、民主主義のインフラにとっては評価可能であることが重要である。
 さらに、本書で繰り返し強調されているのが民主主義における不確実性である。『試される民主主義』が「民主主義とは、制度化された不確実性なのである」*1と締め括られていたように、ミュラーにとって不確実性はキーワードであろう。例えば、新しいテクノロジーと民主主義との関連について次のように指摘している。

アルゴリズムは、私たちの将来の振る舞いが過去の振る舞いと大きく似通ったものになるという前提のもとで予測を生み出し、さらにはその予測の実現可能性を高くするような行動を促す。これは、すでに述べた民主主義の中心的特徴のひとつ、制度化された不確実性としての民主主義という部分と衝突する。(169)

そして、この不確実性が「民主主義のダイナミックで、(望むらくは)クリエイティブな性格を指し示す」(223)ともミュラーは述べる。一方、不確実性は「政体の自由で対等なメンバーとしての、同胞市民の地位を損なってはならない」、「誰もが独自の意見をもつ資格を有するものの、独自の事実を保持するなどというのはありえない」という「二本の最終境界線(ハードボーダー)」の内側に閉じ込められていなければいけない(227)。
 しかし、このことはルールの厳守を意味しない。「ルールを破ったりつくり直したりすることこそが民主的な活動にもなることもある」(227)のだ。だからこそ、本書においてミュラーは戦う民主主義や市民的不服従に注目している。「不服従行動をとるのがもっともふさわしいのは…民主主義国内のあらゆる成員のために、その自由で平等な地位を守ることを目的にしている場合」であり、「戦う民主主義は…それによって民主主義のハードボーダーが強靭になるのであれば、正当化できる」(220)、と。
 「希望にとって重要なのは…前に向かう道を見つけること」であり、「いくつもの道がそこにある」(228)とミュラーは語る。そう、「民主主義の営みには複数の方法がある」(12)のだ。本書は民主主義の原理を示すと同時に、民主主義に複数の道があることを描くことで、不確実な世界を生きる勇気と希望を私たちに与えてくれる一冊である。

 

*1:ヤン=ヴェルナー・ミュラー『試される民主主義(下)』224