yamachanのメモ

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國分功一郎・互盛央『いつもそばには本があった。』

 本を読むことは基本的に好きだけど、それでも「本を読んで何になるんだろう?」と思うことがある。本を読むことそれ自体が楽しかったらそれでもいいかもしれないが、楽しいことは他にもあるし、本を読むことよりも大切なこともあるかもしれない。そんな風に考え出すと、本を読むことが嫌になることもある。

 そのような気持ちのときに手にしたのが、國分功一郎・互盛央『いつもそばには本があった。』である。互さんは「この本は間違ってもブックガイドではないし、分かりやすく何かの役に立つこともないだろう」(9)と語っている。確かに、私もブックガイドとしては読まなかったし、例えば「仕事の役に立ちそうだ」という風にも思わなかった。でも、本書を読むことを通じて、自分が生きていくうえで読書をすることが重要な一部になっている(=「いつもそばには本があった」)、そしてそういう生き方は決して間違ってはいないということを実感することができた。

 本書で特に興味深かったのは、國分さんの「幻想に過ぎないではダメだ」という話を受けて繰り広げられる「現実との向き合い方」に関する議論だ。互さんは「確かに「幻想に過ぎないはダメ」だが、「幻想に過ぎないはダメ」だけでもダメ、なのだ」と指摘する。

「幻想に過ぎないはダメ」だから「実体論」に帰るのでも、「現実」に向かうのでもなく、「幻想に過ぎないはダメ」を知るまなざしで「幻想」を見ること。つぶさに見て、それが機能するさまを、それがもたらす結果を考えること。-おそらく、それが今もなお必要なことなのだと感じる。(23)

そして、「現実」とは「自分の目に映っている世界のこと」(36)であり、「書物がもつ機能の一つは、「他者」というものを通して自分の世界を広げていくこと、あるいは世界を見る見方を多様にしていくこと」(36-7)と指摘したうえで、書物と「現実」との関係を次のように説明する。

 思想が、そして書物が「現実」と向き合うとは、他者を通して自分の目に映っている世界が少なくとも一部は壊され、その先に新たな世界の見え方、多様な世界の見え方を探っていくこと、ではないだろうか。(37)

私生活においても仕事においてもそうだが、秩序の安定を踏まえつつも「新たな世界の見え方」「多様な世界の見え方」を手放してはいけないと思っており、そのためにも「本を読んでいる」ので、互さんの話は大変興味深かった。

 次に興味深かったのは、「幻想」の議論とも関連するが、國分さんは本書の最後に「物語」について語っている箇所である。

私は「物語を復権せよ」という思潮には反対である。そのような思潮がもたらすのは、結局、目の前の現実や研究の現状から独立した閉鎖的な空間だろう。「知らないにもかかわらず語る」人が増えるだけだろう。(112) 

 

近代的な国民的物語とは別の仕方で、理念を理解し、現実に接近するための物語が必要である。それはやはり、ポストモダン的なもの、近代思想の問題点を乗り越えたもの、つまりは一人一人が自分なりの仕方で組み立てた物語でなければならないだろう。そのためには一人一人が、様々な物語を体験できなければならない。(113-4)

 一方で、目の前にある現実のみに埋没するのではなく、他方で、現実から離れた空間に閉じこもる こともなく、現実と向き合って現代社会が抱えている諸問題を解決していくことはいかにして可能か、その答えは本書にはもちろん書かれていない。でも、以上のようなことを考えつつ生きることは間違いではなく、その思考のために「いつもそばに本があること」も間違いではない、本書から(勝手に)受け取ったこのメッセージに私は励まされたし、同じように励まされる人はきっといるだろう。 

いつもそばには本があった。 (講談社選書メチエ)

いつもそばには本があった。 (講談社選書メチエ)