yamachanのメモ

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横田祐美子『脱ぎ去りの思考ーバタイユにおける思考のエロティシズム』

 『脱ぎ去りの思考-バタイユにおける思考のエロティシズム』というタイトルの「脱ぎ去り」「エロティシズム」という言葉からは、僕たちがよく知る「エロティシズム」のバタイユ像を想像するが、本書の主題は冒頭で語られているように、「彼(バタイユ)の思想を古代ギリシャから連綿とつづく哲学の営みのうちに位置づけようとする」ものである(9)。
 本書はその試みをわかりやすく論証していく。そのわかりやすさは、まずは論証スタイルに由来する。章の冒頭で前章までの議論とのつながりを説明した上で、その章で明らかにするものを明示し、章の結論箇所では前章までの議論を踏まえ、その章で検討した内容をまとめた上で、次章で取り組むべき課題を明示している。繰り返しになることを厭わずにこのようなスタイルを貫くことで、哲学を専門としない僕のような読者でも難なく読み進めることができるような構成になっている。
 また、重要な概念について、日本語とフランス語を併記し、語源や原義、翻訳の問題について丁寧に説明していることも、本書をわかりやすいものとする要因の一つである。もちろん、原義や翻訳の問題を問うことがバタイユの思想を哲学の営みに位置づけるために欠かせないことではあるが、フランス語を学んだことが無い人にとっても論証を追うことができるよう、従来の研究書では省略されるような説明が付されており、本書は読みやすいものとなっている。
 本書で描かれたバタイユの思想は、横田さんが試みたように、「古代ギリシャから連綿とつづく哲学の営みのうちに位置づけ」られ、「力動的な哲学的思考の流れのなかに位置づけ」(258)られる。そして、バタイユをそのように位置づけるなかで出てくる、プラトンアリストテレス、カント、ヘーゲルニーチェハイデガーアドルノデリダ、ナンシー、ガブリエルといった名が、本書をより刺激的なものとしている。もちろん、ここで取り上げている名とは異なる、たとえば横田さんも挙げている「サルトルブランショレヴィナスプルーストマラルメなどの名」も「バタイユに連なることとなる」(274)ものであり、本書はこれらの他の作家や思想家の著作を読み、思考するための一つの補助線となるであろう。
 その他にも、序章で論じられている日本におけるバタイユ受容の歴史や背景、第四章で展開されている『マダム・エドワルダ』の文学作品分析や女性的な思考の問題なども興味深く、学ぶことが多い。本書の帯文にもあるように、「バタイユ研究に決定的な哲学的転回をもたらす新鋭の力作」であり、「哲学すること」や「女性」に関する問題をはじめとした横田さんの今後の研究や実践を期待できる一冊である。