yamachanのメモ

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山口尚『哲学トレーニングブック』

 「哲学書を読む哲学書」であり「<読むこと>を徹底的に行う」(9)とする本書は、「書物一般」ではなく、「哲学書」を読むことの特異性にフォーカスを当てた良書だ。「本を読む本」や「本の読み方」と称する書物はたくさんあるが、この本は「哲学書」を「読む」ことに力点を置いている。「哲学書はどれも、ありきたりな見方から離れ、新たな「これまでにない」見方を提供する」もので、「その結果、哲学書の「結論」は読み始めの段階では未知なもの」(9)になる。また、「他者の哲学書を読むことによって、私はよりいっそう私になる。これによって私はますます個別的になり、ますます孤独になる」(454)。そして、「哲学書を読む者たちが作り上げる共同体」について、著者はこのように述べる。

思うに、哲学書を読む者たちが作り上げる共同体は、必ずしも「一致」を理想とする場ではない。むしろ成員のそれぞれが徹底的に個別的な自己であり、そして各々の独位性でもって逆説的に連帯しうるような場-それが私の考える<哲学書を読む者たちの共同体>である。(454-5)

私は仕事柄、制度解説や逐条解説、働き方の本や自治体の取り組みを取り上げた本等を読むことが多い。これらの「実務書」を読むことと、「哲学書」を読むことの差異を意識したことはなったが、本書を読むことで「読むこと」の多様性を考えるようになった。例えば、「実務書」は「個別的になる」のではなく「一般的になる」ためのものであり、「一致」や「同意」に価値を置くもので、その結論に向かって読んでいく。「私は他者たちが書いたものを読み、そして私の仕方でリアクションする」(455)のではなく、「私は他者たちが書いたものを読み、そしてその他者の仕方でリアクションする」のだ。そもそも、「実務書」を読むことにおいては「自己と他者の関係」を前提にしていない。著者が「「死んでいる」のと同じこと」(452)とする研究のタイプ、「これをやっていれば安全かつ安心だ」(452)ということを見つけるために、私は「実務書」を読むのだ。
 では、「実務書」を読むということは、「哲学書」を読むことから切り離されたものなのかというと、そうではないと思う。この二つの読書を結びつけるヒントとなるのは、「問題が伝わらない-コーラ・ダイアモンド「現実のむずかしさと哲学のむずかしさ」を読んで」で語られる「思考が現実のむずかしさを逸れてしまう」(123)という現象だ。「実務書」を読むことを通じて現実と関わることが、この「現実のむずかしさ」を捉えるための一つの方法と考えるからだ。もちろん、この思考・行為自体もまた「現実のむずかしさから逸れる」ものかもしれない。この問題を考えるために、コーラ・ダイアモンドの論考も読んでみたい。
 ところで、本書はこのように哲学書を読みたいという欲望を刺激する。著者は「好きな箇所から読み始めことができます」(10)と述べるが、ぜひ第一章から読み進めてほしい。順番に読むことで、哲学書を読む環境が整えられる。「哲学は役に立つか」では、「そもそも哲学とは何か」という問いを通じて哲学書を読むための導入が図られる。「幸福のダークサイト」では、アラン『幸福論』とそれを批判する中島義道『不幸論』を紹介し、「哲学書を読む哲学書」の読み方(=『哲学トレーニングブック』の読み方)が例示される。第二章の二つの論考はそれぞれ哲学書の「まえがき」、「文体」について論じているものであり、哲学書を読み始めたときに直面する困難をほぐすものになっている。第三章はタイトルどおり「読むことの背景」が著者の自伝を通じて語られ、「哲学書を読むものたちが作り上げる共同体」が示される。そして、第四章では本書のテーマである「自由意志」を論じた哲学書を読むという実践が描かれている。ここで哲学を専門としない私のような人間は哲学の難しさに挫折しそうになるが、第五章でこの「哲学の難しさ」が解説され、その向き合い方が論じられる…というように、順番に読んでいく楽しさやメリットが本書にはある。
 もちろん、著者が言うように、好きな箇所から、例えば一人では読み通せなかった哲学書や気になるテーマから読んでも、十分に読書を楽しむことができる。扱っているテーマや内容は専門的であるが、著者の文体は平明で分かりやすい。自己のエピソードも交えつつ、「自由意志」と「思考」を論じている思い切った構成の意欲作。幅広く読まれてほしい一冊だ。

哲学トレーニングブック:考えることが自由に至るために

哲学トレーニングブック:考えることが自由に至るために

  • 作者:山口 尚
  • 発売日: 2020/10/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)