yamachanのメモ

日々の雑感や文献のメモ等

佐伯啓思「「真の保守主義」再生しかない」(『論座2005.7』)

佐伯啓思氏は、進歩主義の理念を纏ったリベラリズムが支配的イデオロギーとなっていることを指摘している。進歩主義には次の二つの柱がある、

(1)西欧近代社会が生み出した自由や平等、人権、個人主義(個人の尊厳)、幸福への欲求などは普遍的価値をもつ。

(2)歴史は、圧制や抑圧、拘束に抗して、これらの価値を実現するものであり、人間の合理性(自己意識)の高まりとともに、これらの価値を実現することができる。(59)

しかし、リベラリズムを超える価値理念が存在しなくなることにより、リベラリズムは理想としての力を失い、「自由は、各人の主観的な好悪という相対主義の混迷へと陥る」(60)ことになり、衰弱することとなる。

ここで佐伯氏が注目するのが「保守」という立場である。リベラリズムは、あらゆることがらを個人の意識的な選択のもとに置き、それを可能とする自己意識を持った主体を前提としている。一方で、保守主義は個人の自由な選択は、歴史や共同体に無意識に方向づけられていると捉える。

個人の自由から出発するリベラリズムは、社会に共通する「善(good)」を認めようとしないため、道徳的規範の崩壊に対して対応策を提示することはできなかった。ここで佐伯氏は、現代の保守が日本の歴史的・文化的伝統、精神的伝統を発見し、改めて「善き社会」を構想するべきだと説く。そして、「善き社会」を効果的に構想するためには、「多様なコミュニティの自発的で意識的な形成を必要とする」(65)として、地方分権や地域におけるコミュニティづくりが重要な意味を持つと指摘している。

個人的には、佐伯氏が言うところの「保守主義」からの地方分権やコミュニティづくりではなく、リベラリズムから構想する地方分権やコミュニティづくりを考えている。そして、そこには「保守」という価値も内在するものと考えている。

大澤真幸「第三者の媒介で「新しい自由」を切り開け」(『論座2005.7』)

大澤真幸氏は、リベラリズムを「自由を、(他者の同様な)自由とは異なる根拠によって抑圧すべきではないとする思想」(46)と定義し、リベラリズムの理念として「個人がこの経験的世界で帯びる偶発的な性質を無化し、還元すること」(48)を提示している。

しかし、偶然性は「他の性質でもありえた」というものであり、「その「他でもありうる」という差異性によって連帯することができる」(49)ため、多様な価値観を肯定するリベラリズムにとって廃棄すべきものではないと大澤氏は指摘する。そして、「来るべきリベラリズム」は、「先験的な選択の反復、言ってみれば、先天的な性格の「選びなおし」を含むようなリベラリズムである」(50)と述べる。

この「先験的選択」とは、あるタイプの他者、つまり「第三者の審級」の存在を前提にした社会的効果であり、それゆえに自由は本質的に社会的なものとなる。大澤氏は、第三者の審級=媒介者を、安保理改革と歴史認識問題へと応用し、具体的な実践方法を提案する。そのうえで次のように指摘する。

ここで述べた先験的な選択の反復(選びなおし)とは、そのたびに、新たな犠牲を通じて、新しい権威、新しい価値観、新しい第三者の審級を生成する現場に立ち会うことである。鍵は、問う他者、問う媒介者だ。言い換えれば、ここに提案したような作為的な設定がなくても、そこに存在するだけでわれわれに問うてくる他者がいれば、同じメカニズムは作用する。(56)

そして、「他者に人間的に-というかむしろ身体的に-接してなされる贈与や援助」(56)を、自由の行使の至高の一例として提示している。この思考から大澤氏が導き出す「できるだけ(他者たちの)近くへと進出しうる「贈与の部隊」」(56)は、ウクライナ情勢を考える上でも参照すべき議論である。

櫻田淳「普通の国」になればまた出番がやってくる(『論座2005.7』)

櫻田氏は「保守派」と「リベラル派」との対立の焦点を、「近代国家の枠組み」に依拠して説明している。

保守派は近代国家としての枠組みが敗戦と占領によって著しく損傷されたと考え、この「損傷」の修復を問題意識の中心においてきた。その修復の具体的な内容は、憲法9条に象徴される軍隊の位置づけの是正、安全保障法制の整備、靖国神社参拝や歴史教科書の扱いである。

一方、リベラル派はそのような修復作業とは関連しない、例えば地球環境の保全、人権の擁護、途上国における貧困や感染症拡大の問題に関心を寄せてきた。さらに、これらの課題に対して、「近代国家の枠組み」で直接縁を持たないNGOや市民団体の役割の協調してきたのである。

ここで櫻田氏はスタンリー・ホフマンの「国境を越える義務」を取り上げ、この課題に対してこそリベラル派の議論の真価が問われる、次のように指摘する。

戦後、久しい間、保守派が自由民主党政権に近い位置を占めてきた事情から、リベラル派は、その時々の政権に対して批判や対抗論理を示す意味合いで、…「国境を越える義務」に関わる諸々の課題に取り組む意義を強調した。けれども、リベラル派に要請されるのは、こうした課題への実質的な処方箋を適宜、用意していくことである。(27)

つまり、「リベラル派にも、「現実主義」の思考が要請され」、「「何をなすべき」ではなく「何ができるか」、がリベラル派からも示されなければならない」(29)ということである。

2022年の今、リベラル派は「近代国家の枠組み」と適切な距離を置くことができているのか、「現実主義」と向き合うことができているのか、これらのことについて再考すべきである。

山口尚『日本哲学の最前線』

 本書は國分功一郎、青山拓央、千葉雅也、伊藤亜紗、古田徹也、苫野一徳の思想を取り上げ、「J哲学」という日本哲学を論じている。「J哲学」について、著者は次のように述べる。

「J哲学」と呼ばれる日本哲学の最前線は≪日本的なものを哲学に取り入れるぞ!≫などの志向をもたない。むしろ、「輸入」と「土着」の区別を超えて、限定修飾句なしの「哲学」に取り組むのがJ哲学である。そしれそれがたまたま私たちの言語である日本語で行われるために「J」が冠されているのである。(5)

 そして、J哲学の2010年代は「自由のための不自由論」(4)として特徴づけられる。「真に自由になるために、私たちを縛るものと向き合う-これがJ哲学の旗手たちの取り組んできたことだ」(8)、と。

不自由論は人間的自由の否定に終始しない。むしろ、不自由論が<人間の不自由>を
強調するのは、≪自己の不自由を直視することが真の意味で自由になることへの道だ≫という信念のゆえである。それゆえ不自由論は一種の自由論だと言える。ただしそれは不自由に媒介された自由論なのである。(167)

 このような視座から各思想家が論じられることで、それぞれの思想の個別性が明らかになるとともに、思想間の関係も見えてくる。私たち読者は、いつの間にか「共鳴空間」(15)へ招かれているのだ。
 本書で取り上げられている思想家が魅力的に思えるのは、この「自由のための不自由論」という精神が通底しているところが大きいが、それだけではない。それぞれの思想家の探求が実践的でもあるからだ。そして、「多かれ少なかれ<しっくりいく表現を求めて迷う>という試みに参与している」(163)という探求のプロセスが見えてくるからだ。さらに、それぞれの思想家は学問分野を越境し、理論と実践をも越境している、これもまた魅力の一つであろう。
 このような「J哲学」の魅力から、著者の次の発言に大いに賛同する。

J哲学の不自由論は或る種の「変革」の推進力をももつ、と私は考える。これは人間社会がその中に蔵する変革のポテンシャルへの私の期待の表明でもある。私たちの社会よ、私も努力するので、汝も生成変化せよ!(206-7)

 本書を読むと、自己・他者・社会への認識が変化するだろう。この認識の変化は実践の現場でも役立つものであり、人びとの生き方や社会を変えうる。変革のために必読の一冊である。

 

國分功一郎・千葉雅也『言語が消滅する前に-「人間らしさ」をいかに取り戻すか?』

 「二人とも、極度に抽象的であることによってこそ、個別的な事例の現場に届くことがありうると信じている」(3)-國分功一郎氏が指摘している千葉雅也氏とのこの共通項のためか、二人の対談は共鳴しあっている。そして、千葉氏が語るように、この二人の「おしゃべり」は「創造的な開口部を照らすことになるかもしれない」(209)と思える内容だ。
 『中動態の世界』と『勉強の哲学』に関する議論から始まり、権威主義ポピュリズムエビデンス主義といったように、話題は多岐にのぼる。しかし、この多様なテーマに通底しているものがある。それが本書のタイトルにもなっている「言語の消滅」である。
 國分氏は「僕らはどんどん言葉を使わなくなってきている。だから言葉が人間を規定しているということの意味も想像できなくなっているかもしれない」(65)と指摘する。このことは、千葉氏が言うように、状況に対して「距離がなくなる」(161)という事態を招く。「そうすると敵対する関係の間の距離もなくなるから、もう直接衝突になっていく」(161)というのは、現在の政治状況を見ても明らかであろう。
 「超越性」も、二人にとって重要なテーマになっている。超越的なものがもともと上に存在していたとすると権威主義になるから、その発生を考える必要があるということだ。それは「権威主義なき権威」(132)を考えることである。千葉氏はこのことを「新たなる貴族への生成変化」「貴族的なるものの再発明」(131)と名づけている。これもまた、現在の民主主義の状況への批判になっている。
 二人のエビデンス主義に対する批判も鋭い。國分氏は「エビデンスには」反権威主義や民主主義的な側面もある」(189)一方で、次のような暴力性があることを指摘している。

ところが、エビデンス主義には別の側面があって、非常に少ないパラメーターだけを使って真理を認定するので、個人の物語を無視するわけです。斎藤環さんは、ブラシーボで治るならそれが一番いいと新聞に書いたら、エビデンスがないと強烈に叩かれたらしい。自分が治ったということは、本人にとっては大事な物語なのに、エビデンス主義は「それは誰にでも通用するわけじゃない」「科学的に根拠はない」と民主主義的な暴力で叩き潰してしまうところがあるわけです。(190)

千葉氏もまた、「エビデンス主義も法的発想と同じように責任回避に使われやすい」(191)として、「状況によって判断することの難しさと責任から逃れようとしている」(191)風潮を批判している。
 以上のように、「言語の消滅」を巡って議論は進むが、対談の最後(204-5)では「本当にあまりにも(日本は)グダグダなんで、かえって日本人の間では言葉への渇望が生まれたかもしれない」(千葉)、「情報と統計による管理があまりにも行き過ぎてしまったわけだから、言葉で人を動かすことの大切さが少しずつ理解されつつあるのではないか」(國分)と、二人の希望が語られている。政治・社会の個別の現場で「何か」違和感を持つ人がいるなら、そこにはこの「言語の消滅」の問題があるのかもしれない。そのことへの気づきと、その気づきから始まる希望を見い出すために、必読の一冊である。