yamachanのメモ

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人文知・人文学(の危機)について

週刊読書人』の2015年12月18日号と2016年1月1日号で、人文知・人文学(の危機)について言及されていたのでメモ。

まず、2015年12月18日号、宮台真司苅部直渡辺靖鼎談「政治・社会・人文科学を振り返る」からの抜粋。

宮台 …ハーバーマスが… 『人間の将来とバイオエシックス』(法政大学出版局)でこう言います。人文知は長く「何が人間的か」を議論してきたが、そこでは「何が人間か」の自明性が前提にされている。ところが遺伝子科学の発達で、人間のようなものがあれこれ存在するようになると、「何が人間か」の自明性が崩れる、と。…

…未来を正確に予測していたハーバーマスはすごいけれど、人文知のあるべき姿を体現していることの方が注目されるべきです。社会にとって科学とは、技術とは何か。それらを議論する人文知は、社会にとって何か。人文知はこれを問わねばなりません。(1面)

せっかくなので、『人間の将来とバイオエシックス』のハーバーマスの発言をメモ。

われわれが 生まれる以前の人間の生命と(あるいは死後の人間と)どのように関わるかは、類的存在としてのわれわれの自己理解に関する問題なのだ。そして、われわれが自分たちを道徳的人格であると考えることは、こうした類に関する倫理と密接に絡み合っているのである。人格以前の人間の生命についてのわれわれの考え方ーそしてそうした生命とのわれわれの関わり方ー、それは、人権の主体における筋の通った道徳(Vernünftige Moral)にとって、類の倫理のための環境として安定性をもたらすものなのである。つまりは、道徳のコンテクストであって、道徳そのものが崩壊しないためには、壊れてはならないものなのである。(112-3)

われわれが道徳的に行為しなければならないという当為(sollen)は、(義務論的に理解された)道徳そのものの意味内容に含まれているにはちがいない。しかし、バイオ技術が類的存在としてのわれわれのアイデンティティを暗黙のうちに掘り崩しつつあるとすれば、なぜわれわれは道徳的でありたいと望まねば(wollen)ならないというのだろうか。道徳を全体としてどう評価するかということは、それ自身は道徳的判断に属することではなく、倫理的判断、いや類倫理的判断なのである。(122)

ハーバーマスの著作は、学生時代に大量に購入して読みまくったけど、最近は遠ざかっている。でも、やっぱり面白いな。

さて、鼎談に戻ると、宮台氏と苅部氏が「全体を見渡す学問を」という箇所で議論している内容が興味深い。

宮台 …人文知=リベラルアーツも、アートと同じく日常に再帰的にリエントリーさせる装置だと思います。

ポストモダンとは、近代のシステムの正しさを担保してくれるはずの人権概念も主権概念も所詮はシステムの内部表現に過ぎないという事実に気づきを得て以降です。そこでは家族を営むにせよ、企業や地域のような中間団体を営むにせよ、根拠なきゲームを敢えてする再帰的な構えに向けてリセットしリエントリーする通過儀礼が必要で、人文知がそれを与えてくれます。

苅部 かつてオルテガ=イ=ガセットが『大学の使命』(一九〇三年)で展開した大学教育論が重要だと思います。簡単にいうと、専門教育と「一般教養」の教育を並行して行うということ。専門の科目と並行して、文系・理系を問わず、物理学・生物学・歴史学社会学・哲学の五科目を履修するというシステムです。つまり、個別具体的なものにかかわる専門知を身につけるのと同時に、それを全体から見渡すような学問を学ぶ。そのことで自分がいま何を学んでいるか、位置づけを絶えず確認してゆく。

…全体を見渡せるようになるためにマルクス主義を復活しろとは言いませんが、せめて大きな理論とそれぞれの専門領域を同時並行で勉強していくような、大学教育のカリキュラムがあったらいいと思います。

宮台 同感です。…ポストモダン以前は、人文知領域の人々は科学の動きに敏感に反応しました。量子力学が開始された時も、DNAの二重螺旋構造が発見された時も、人文知で旺盛な議論が起こり、自然科学の領域にフィードバックされましたが、そういうことがなくなっていますね。(4面) 

この教育論は本当に重要。僕は学部時代にたまたま橋爪大三郎小室直樹宮台真司大澤真幸といった社会(科)学者に影響を受けたこともあり、物理学や生物学も勉強したいと思っていろいろと受講してきた。それでわかったことは、全体を見渡す視座や横断する視座というのは必要だし、それを身につけるには、それぞれの学問領域についての一定の訓練が必要ということだ。そして、以上のようなことを学ぼうとする動機づけが困難ならば、大学教育のカリキュラムで対応するしかないと思う。

次に、『週刊読書人』の2016年1月1日号の小林康夫・西山雄二対談「人文学は滅びない」での議論。

西山 …大学や人文学の理念と問題を考える際に、私はいつもカントに立ち戻って考えます。大学内外の、あるいは諸学部間での真理をめぐる合法的な争いが大学の理念を成立させるのであって、これは戦争ではないとカントは言います。文科省の通知は戦争の奨励とでも言えばいいのか、「社会的要請」に照らし合わせて、「生き残りをかけて戦ってくれ」と宣言しているようなものです。まず話題になったこの通知に対して、どのように思われますか。

小林 …文科省の通知を受けて、こちらがそれを「戦争への奨励」だと決めつけたり、こちらも文科省の「攻撃」に「反撃」するように「戦い」を組織するという方向へ話しをもっていくと、まさにカントではありませんが、人文科学の、あるいは「大学」の知の中核をなす「知」の時間性が担保されなくなると 危惧するわけ。つまり、状況の切迫が確かだとしても、それぞれの態度決定を性急に迫るという方向をかわしたいわけですね。肝心なのは、そうした動きがどういう背景をもって出てきているのかだと思うから、それについての議論なしに、一片の通知をめぐって、国から戦いがしかけられた、よし、こちらも戦うぞと反応してしまうと、ポリティカルなゲームに乗っかることになる。そこをかわしたい。もし人文学の存在意義を主張するのであれば、なぜ今このような変化が生じたのか、歴史的コンテクストを把握した上で、どう応答すべきか判断しなければいけない。人文学の危機という深刻な問題を、文科省の通知などに集約させたくない。そんなものは無視したい。もっと大きな危機を抱えているという方向に議論していきたい。(1面)

人文学の危機を文科省の通知に集約させたくない、というのはその通りで、「無視したい」という考えも、個人的には賛同できる。人文学における「時間の留保」は重要で、小林氏もそのことを指摘している。また、この小林氏の発言の後に、西山氏が歴史的コンテクストについて説明し、議論が深められているので、関心がある方はぜひ本誌で確認していただきたい。

本対談の最後で、小林氏は「人間である」ということについて次のように語っている。

小林 …いま「人間であること」自体が危機的になってきている。フーコーの『言葉と物』の最後ではないけれど、人間という概念自体が消えつつあるのかもしれない。最近のニュースでも、二〇五〇年には現在の労働力の半分はロボットに置き換えられると報じていました。そんな時代に、「人間である」とはどういう意味を持つのか。もう一度問うていく。これは正解があるのではなくて、正解はどこにでもないのだけど、「人間である」とは何かを考えることこそが、とても重要だということです。人文学の希望はそこにしかないと僕は思います。今や「人間である」ことをラディカルに行為しなければいけない。そんな時代が来ている。(11面) 

ここで、宮台=ハーバーマスの「何が人間か」の問題に回帰する。そういえば、かつてよく読んでいたノベルト・ボルツの著作にこんな本もあった。

人間とは何か―その誕生からネット化社会まで (叢書・ウニベルシタス)

人間とは何か―その誕生からネット化社会まで (叢書・ウニベルシタス)

「確かなことは、「人間なるもの」が今日、これまで以上に疑わしい存在であるということだ」(ⅺ)。 

「何が人間か」「人間であること」「人間とは何か」…まだまだ考えるべきことはたくさんある。それ人生を豊かにしている。