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マーティン・ジェイ、日暮雅夫共編『アメリカ批判理論-新自由主義への応答』

 マーティン・ジェイ、日暮雅夫共編『アメリカ批判理論-新自由主義への応答』は、現代において批判の対象とはなるもののその実態を捉えがたい「新自由主義」について、アメリカ批判理論の立場から論じるものだ。本書の特徴を、編者の一人である日暮雅夫は、①アメリカ批判理論の最新の研究を踏まえたもの、②アメリカ批判理論からの新自由主義に対する批判的応答、③アメリカ批判理論の研究者の論文を広く取り上げた総決算を示すもの、と説明している(日暮雅夫「解題 新自由主義から権威主義の批判へ」)。
 一方、タイトルと副題には出てこないが、「民主主義」もまた本書のテーマの一つであり、新自由主義に抗するためには民主主義を再考/再興することが必要である、というのが読後の感想だ。この新自由主義と民主主義との関係を理解するために、チャールズ・プリュシック「新自由主義-自然史としての批判理論」は重要な論文である。プリュシックは、古典派経済学や新古典派経済学の経済思想を論じて、アドルノの自然史の理念という視座から新自由主義を分析し、次のように述べる。

新自由主義は、解放、競争、自由に関する特定の理想を伴った自由市場社会のビジョンを、市場調整を特徴づける自然的客観性の明白な形態を通じて正統化してきた、というのが私の主張である。…新古典派の伝統が機械的で無時間的で決定論的な自然の概念のアナロジーを通じて市場のビジョンを構築したとすれば、新自由主義的思想は、自然のもう一つのイメージを通じて市場社会のビジョンを構築した-すなわち、自由市場は社会よりも多くのことを知っている自己秩序的システムであるというビジョンを、したがって、経済学という学問は、経済的自然の形而上学復権させたのである。(16)

このような自己秩序的システムに対して、批判理論の立場から「民主的手段によって決定しうるものによって制限されている」(17)と把握することが重要となるのだ。
 民主主義という観点からは、マーティン・ジェイ「新自由主義的想像力と理由の空間」も必読である。ジェイは自由主義を、マックス・ヴェーバーの「手段的-目的合理性」、合理的選択理論のような「機能主義的合理性」、ミシェル・フーコーの「統治生の合理性」という3つの合理性から描き、その対抗軸としてユルゲン・ハーバーマスの「コミュニケーション的合理性」を提示している。そして、コミュニケーション的合理性の特徴を、「対話的が複数話的」であり、「秘密裏の、または誰かからの監視を超えた自動操縦で作用するのでもなく、批判的公共性の衆人環視もとで考察するという意味においても公共的である」(58)と指摘している。また、「時間性」という観点からは、「コミュニケーション的合理性の時間性は、熟慮する、急がない、心のこもったものである」(60)とも述べている。このようなジェイの議論は民主主義について再考を促すものであると言えよう。
 さらに、『いかにして民主主義は失われていくのか』の著者であるウェンディ・ブラウンは、第4章「新自由主義フランケンシュタイン-21世紀「民主主義」における権威主義的自由」において、新自由主義が民主主義へもたらす問題について次のように述べる。

市場と道徳の拡張が社会と民主主義の言説に取って代わるにつれ、国民そのものが、民主主義的シチズンシップによって構成されるのではなく、所有されたものとして描かれるようになる。この所有者であることは二つの顔を持つ-懸命な取引をなし秘密の漏洩を避けることだけを目的とするビジネスの顔と、危険な世界の中で安全が保障されねばならないという家庭の顔である。(91-2)

その他の章でも、「進歩的ポピュリズム」(第2章)、「権威主義」(第5章)、「遅れてきた認識論」(第6章)等が、民主主義と関連して議論されている。これらの議論は、第7章でロバート・カウフマンが語る「力の場」(188)となり、「より広大な社会的現実を明らかにして」(同)、我々が直面している新自由主義的世界とは異なる、来るべき民主主義を構想するきっかけを与えてくれるだろう。