yamachanのメモ

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高橋陽一郎『藝術としての哲学-ショーペンハウアー哲学における矛盾の意味』

 ショーペンハウアー哲学の研究書として、そして「藝術としての哲学」に関する研究書として優れた一冊だ。著者の高橋陽一郎氏は各方面で、ショーペンハウアーの意志論や藝術論、そして遺稿の哲学等を論じてきたが、これらの研究の成果がこの一冊で一つの作品となったといえよう。
 第Ⅰ部では、初期遺稿を導きの糸として、主著『意志と表象としての世界』正編が「芸術としての哲学」として構想されていたことを論じている。「哲学は藝術でもあり学問でもある、と同時に、単なる藝術でもなく、単なる学問でもない」、「独自の境位を獲得する」(44)ことになる。また、「ショーペンハウアーにとって哲学とは、藝術と同様まず何よりもイデーの直観に重きが置かれ、その意味で学問よりもずっと藝術に近い営みである」(44)とのことだ。第二章では、後期フィヒテの知識学を取り上げることで、ショーペンハウアー哲学における「芸術としての哲学」という側面がより一層明らかとなる。
 第Ⅱ部では、『充足根拠律の四方向に分岐した根について』第一版や『意志と表象としての世界』正編、それ以降の後期思想の著作における「意志」概念について論じ、「初期の(超越論的)意志概念と後期の(擬似-実体的)意志概念との区別不可避にして両立可能であること、すなわち整合的理解が導かれる」(22)。この第Ⅱ部は、ショーペンハウアー哲学におけるキーワードの一つである「意志」概念を理解するためにも必読である。また、172ページに掲載されている、各著作における考察内容・特徴をまとめている表も、ショーペンハウアー読解の参考になるであろう。
 第Ⅲ部では、本書の特色である「ショーペンハウアーの著作が作品としてもっている藝術性、言い換えれば読者=鑑賞者(観照者)に対して有している意義」(9)、つまり「作品を通じてさまざまな観点から漸次世界のもろもろのイデーを観ることによって矛盾を超えた観照の境地に立つ」という「ショーペンハウアー哲学の真の意義」(204)について論じられている。ここで重要となるのが「イデー」という概念であるが、これについては補論で別途論じられており、この補論もまた、ショーペンハウアー哲学を理解する上で必読の内容である。
 さらに終章においては、ショーペンハウアーの著作が「藝術としての哲学」を保持しつつ、それを超える「宗教」の役割をもつことも指摘されている。「哲学書は藝術としての道を完遂すると、宗教書と同じ(あるいは似た)役割をもつ」のであり、「ショーペンハウアー哲学は「藝術」に一層近い営みながらも、哲学が学問及び宗教とも相互媒介的であることを示した成果であったと言いうる」(213)のだ。
 ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』第一版の序文で、「本書の中で提示した思想を深く会得するためには、この本を二回読むよりほかに手だてがない」として、「しかも一回目は大いに忍耐を要する」と述べている*1高橋陽一郎『藝術としての哲学』は、二回読んでも理解できなかった方、もしくは一回目を読むための忍耐力を身につけたいという方に、ぜひ読んでほしい。

 

*1:ショーペンハウアー『意志と表象としての世界Ⅲ』249