yamachanのメモ

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井上達夫「リベラリズムの再定義」(『思想2004.9』)

批判の標的となっているはリベラリズムは批判しやすいように単純化・戯画化された「ダミー」であり、「生身のリベラリズム」は「内部に分裂・緊張・葛藤を抱え、多様な方向への自己変容のポテンシャルを内包している」(10)と、井上達夫氏は指摘する。そして、リベラリズムの再定義のために本論文で取り上げるのは、リベラリズムを追求しているジョン・グレイである。グレイの「転向」、「リベラリズムの哲学的精神の殺害を企てながら、その歴史的身体には甘えて擦り寄ろうとする両価性」(12)という「思想的構え」が、リベラリズムの危機を理解するための格好の素材になっているというのである。

グレイは『リベラリズム*1において、リベラリズムに通底する哲学的原理を見出そうとしていた。しかし、その後の著作ではその姿勢を切り捨て、「リベラリズムを特殊で偶発的な歴史の所産として文脈化する「ポスト・リベラルな視点」」(15)を打ち出すようになった。このようなグレイのリベラル観の変遷について、井上氏は「リベラリズムを「死に至る病」に追い込む頽廃した思想の腐臭がそこには漂っている」として次のように批判している(20)

グレイが「死」に追い込もうとしているのは、彼が死亡宣告した哲学的リベラリズムのことではない。彼が賦活させたつもりのリベラリズムの実践の方である。リベラリズムの哲学はグレイの声高な死亡宣告にも拘わらず自己を絶えず再解釈し変容させつつ生き続けるが、リベラリズムの実践は彼が望むようにこの知の運動から本当に切り離されてしまうなら、自己を喪失し力の論理にも吸収されざるを得ない。

このようなグレイに対する批判を通じて、井上氏は「批判的自己啓蒙」(21)とそれを要請する「普遍主義的正義理念」を唱え、リベラリズムにとって「正義の基底性」が必要不可欠の理念であるとしてこのように述べる(22)。

正義の諸構想が分裂しコンセンサスが現実には成立しないからこそ、正義の諸構想の間の選択を行う政治的決定を、決定の負の帰結を被らされる他者からの異議申し立て開いて、その公共的正当化可能性を絶えず吟味し続けることを要請する普遍主義的正義理念が、政治的決定の「正当性」基準に関する正義構想が分裂対立する多元的社会において、政治的決定の公共的「正統性」を担保するために不可欠の役割を果たすのである。このような正義の特殊構想に対する普遍主義的正義理念の基底的位置こそ、「正義の基底性」の根源的意義をなす。

そして、「リベラリズムとは現状を個的化し合理化するイデオロギーでも実力的闘争論でもなく、現状の変革をめぐる政治的闘争を、他者への公正さを要請する正義の支配に服せしめようとする企てである」(24-5)と締め括る。

リベラリズムの哲学的原理ではなく、実践面に優位を置く思想的態度こそがリベラリズムの実践の力を喪失させるという井上氏の指摘は、リベラリムの実践の力が現実として衰退している現代において再注目すべきであろう。

 

*1:井上氏は「「自由主義」という訳語はリベラリズムの思想資源を総括的に表現するには狭隘すぎるので、私は「リベラリズム」という音訳をそのまましようする」(26)としている。