yamachanのメモ

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柿埜真吾『自由と成長の経済学-「人新世」と「脱成長コミュニズム」の罠』

 「脱成長コミュニズムという妖怪が日本を闊歩している」(144)-このように語る著者は、斎藤幸平『人新世の「資本論」』が資本主義後の明確なビジョンを示したことを評価しつつも、「問題は脱成長コミュニズムが本当に資本主義に代わりうる選択肢なのか」(150)と疑問を投げかける。本書が理論的・歴史的な議論を通じて提示するのは、「経済成長と自由を選ぶのか、脱成長と全体社会を選ぶのか」(204)という選択肢であり、もちろんその答えは前者の「開かれた社会への道」(204)である。つまり、「もっと資本主義を!」(196)ということだ。
 しかし、コロナ禍や気候変動のような課題に対して経済成長や資本主義が批判されているにもかかわらず、なぜ「もっと資本主義を!」なのか。著者は資本主義批判に対して、「今ほど資本主義が必要とされているときはない」(25)と主張する。そして、脱成長論のように「経済成長をなくせば環境が改善されるといった発想はナイーブであり、間違って」おり、「経済成長が停滞していた旧社会主義国では環境汚染が最も深刻だった」(151)として次のように指摘している。

共産主義や脱成長が環境にやさしいといった主張には全く根拠がない。経済成長は乳児死亡率の改善や平均寿命の伸長といった人類の福祉と密接な関係があり、主観的幸福度の指標も豊かな国の方が高いのが一般的である。経済成長自体を悪と見なすのは誤りである。(152)

つまり、「環境問題が起きるのは、市場経済のせいではなく、むしろ市場が存在しないため」(155)ということである。
 さらに、脱成長により経済が停滞すると、人びとの生活脅かされ、不満が高まることで排外主義や陰謀論を招き、ファシズムや人種差別主義が台頭する。このことは歴史が語っているのだ。一方、資本主義は「自発的交換によって成り立ち、参加者の誰もが得をするプラスサム社会」(172)であり、「豊かさだけではなく、意見の異なる人々の間でも自発的な協力、共存を可能にする仕組み」(173)である。これもまた歴史が証明しているのである。
 また、脱成長社会が描く理想社会についても、「理想社会では人間性が変化するという空想には長い歴史があるが、その誤りは繰り返し証明されてきた」として次のように批判している。

人間性を変えようとする社会は、意見を常に監視され、少しでも異論を言えば、“自己批判”や“総括”を迫られ、殺されるか洗脳される社会である。
斎藤氏は、脱成長社会では市民の話し合いで問題が解決されると主張するが、閉鎖的コミュニティーの決定が民主的で、望ましい結果になる保証はどこにもない。(179)

そして著者は次のように指摘する-「脱成長コミュニズムは新たな隷従への道に過ぎない」(198)。
 このように、著者の脱成長コミュニズムへの批判は厳しい。根底にあるのは「自由」である。脱成長コミュニズムへの希望が語られる中、経済成長だけではなく、この「自由」の価値を問い直す上でも重要な一冊と言えよう。