yamachanのメモ

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稲葉振一郎『不平等との闘い-ルソーからピケティまで』

 副題に「ルソーからピケティまで」とあるように、不平等の歴史的な展開を紐解いている。さらに、「経済学以前の政治思想から始めて、現代の経済学までにいたる不平等分析を主としてその理論面に焦点を当てて概観してきました」(244)と著者の稲葉氏自身も述べているように、本書で扱われている領域は広く、不平等について考える上で必読の一冊と言える。
 本書で展開されている歴史的展開を概観すると、経済学における古典派経済学からマルクスにおいては、「所得・富の分配は生産、経済成長に影響を与える」(25)として、不平等な問題が経済成長の問題と不可分なものとして扱われていた。しかし、19世紀末頃に起源を持ち、経済学の主流となった新古典派経済学においては、その始祖の経済学者は労働者の貧困に対して関心を示したものの、市場が効率的であれば分配と生産は分離できるとして、分配問題への関心が低下していく。ところが、20世紀の終盤では格差と不平等への関心が再燃し(これを「不平等ルネサンス」と呼んでいる)、分配と生産、経済成長との関係についての関心も再燃し、このような潮流の中で、ピケティが出てきたのである。
 これらの歴史的展開を踏まえて、稲葉氏はこのように述べている。

ロールズからセンに至るまで、平等主義をめぐる哲学的論争は「何についての平等か、何を平等に保障するのか」を中心になされてきましたが、近年では「そもそも何のための平等なのか、平等を目指すことを通じて我々が大事にしてきたものは本当はなんだったのか」がホットな論争点となってきています。そのような論争状況をふまえたときに、案外懐が深くて頑健なのはガロアやベナブーの立場であり、ピケティはやや足場がぐらついているのではないか、とも私には思われます。(233-4)

そして、ピケティの立場は「不平等によって損われるのは、貧しい者たちの私生活上の幸福以上に、公的な政治参加の機会」であり、「それを保証するためには、単なる最底辺の生活水準の向上以上に、権利保障が重要」(234)とするものであるものの、次のような「ブレ」がみられると指摘する。

時に「問題は不平等の縮小それ自体ではなく、権利の普遍的な保障だ」と言ってしまいますから「それならば問題とすべきはトップへの富の集中それ自体ではなく、下層の貧困であり、下層の底上げができるのであれば、その財源はトップ層より中流から広くとってもかまわないのではないか?」という反論に対してうまくこたえられなくなってしいます。(234)

このような「ブレ」は、ピケティに限らない、不平等を問題にする(もしくは問題にしない)我々が陥ってしまうものである。本書での歴史的かつ理論的な議論を踏まえて、現代社会における不平等と向き合っていく必要がある。