yamachanのメモ

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北田暁大「現代リベラリズムとは何か」(仲正昌樹・清家竜介・藤本一勇・北田暁大・毛利嘉孝『現代思想入門』)

北田暁大氏は、「リベラリズム」のアイデンティティについて、「「問い」のレベルでの共通性に同一性の「根拠」を見いだす」(163)井上達夫氏の議論に注目している。井上氏によると、「リベラリズムの自同性の根をなす問い」とは「善から区別された社会構成原理としての固有の意味における正義への問い」のことである(井上達夫『共生の作法』214)。

「善の諸構想の多元性を所与として承認せざるを得ない状況において、社会的結合はいかにして可能か」と問い、その可能根拠としての正義、即ち、相競合する善の諸構想を追求する人々がいずれも自己の構想を追求する自由を不当に抑圧されることなく社会的に結合することを可能にするような条件としての正義の存在を信じ、それを模索することがリベラリズムの企てであり、リベラリズムが自らに負わせた課題である。(井上達夫『共生の作法』214-5)

このような井上氏の議論を受けて、北田氏は「リベラリズムとは、善の構想の多元性を前提としたうえで「正義 justice」のあり方を模索するプロジェクト(問いの思考の試行)の総体である」(163)と説明している。そして、「リベラリズムの自同性の根をなす問い」に対する「解答」のパターンを提示している。

まず、「現在リベラリズムではないもの」という観点から、「個人指向/共同体(社会)指向」という軸と、「正義指向/善指向」という軸から、リベラリズムを「個人指向・正義指向」へ位置付ける。

次に、「現代リベラリズム」内の差異から「リベラル」を位置付けようと試みている。具体的には、個人的自由の多寡という軸と、経済的自由の多寡という軸をもとに、「基本的自由を尊重する一方で再配分的政策を支持するという点」から、リベラルは「個人的な自由・尊重/経済的自由軽視」に位置すると指摘している(168)。

もちろん、このような図式では、北田氏が指摘しているように、マイケル・ウォルツァーやジョセフ・ラズ、リチャード・ローティなどのような「リベラル」を適切に位置付けるのは難しく、「昇り終えたら外すべき梯子」(170)とみなしておいた方がよいのかもしれない。しかし、このような「どうせ外すべき梯子」という認識こそが、現在のリベラルの混乱を招いているのかもしれない。