yamachanのメモ

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丸山眞男「政治嫌悪・無関心と独裁政治」を読む

昨日に引き続き、丸山眞男を読む。今日は「政治嫌悪・無関心と独裁政治」。 

第一巻 1933―1949 (丸山眞男集 別集)
 

本論考で興味深い点は、「政治に対して何か本能的な嫌悪を感ずる人間こそ、もっとも政治を担当するにふさわしい人間である」(297)と指摘していることである。そして、政治的なものに対する抵抗を感ずる精神を持つ人間が、権力の自己抑制を知っていると丸山は語っている。

私は政治家ではないが、行政職員として働くうえで、この丸山の考えに同意する。政治や行政に対する嫌悪感を持たない人間が政治家や公務員になると、権力に酔っぱらう可能性が高い。「政治家になりたい」「公務員になりたい」という「やる気」は大事だけど、それが幸福な政治・行政をもたらすとは限らない、このことを日々感じる。

あと、この論考で丸山が哲学や宗教「だけ」を研究することを批判している箇所が面白い。

信州における哲学や宗教だけを研究する態度もまた感心できない。信州人が哲学的であることはレベルの高いことを表現しているが、他方性格の弱さを表現している。究極的な人生の目的をプロセスを通らずして絶対をつかもうとするもので、日常的な生活環境を打開していこうとする能力の無さ、地味な努力を軽視する態度である。無媒介に絶対を得んとする哲学はない。日常の生活環境を軽視するところに、支配社会的不正を援助することになる。忍従の美しさは忍従を強いているものをも許している。これは社会的不正を許容するもので、最悪の政治をも許容するものである。(303)

哲学や宗教を主に研究している人は、この丸山の批判をどのように受け止めるのか気になるところ。

なお、この論考は、長野県で行われた講演記録のようだが、本講演は次のように終わる。

昨日よりは今日、というプロセスに善悪の判断が生まれるのである。かかる地盤の上に民主主義は正常に発達するもので、独裁者やボスは天から下ってくるものではなく、上述の雰囲気の中から生ずるものである。(305)

この「昨日よりは今日」という「プロセス」、悪をも受け止めつつ、より善いものへと進もうとする精神、私もこの精神を持って活動していきたい。