yamachanのメモ

日々の雑感や文献のメモ等

吉田徹『アフター・リベラル-怒りと憎悪の政治』

 「共同体・権力・争点の三位一体からなる政治のコンテンツがグローバルな環境と個人的な文脈によって各国でどう崩壊し、それとともに、それぞれがどのような変化を見せているのかを特定する」(29)ことを目的として本書は、帯にもあるように「不安なくらい時代を生き抜くための新しい見取図」を読者に与えてくれる。また、本書の中でも参照されている、ヤン=ヴェルナー・ミュラー『試される民主主義』では取り上げられていない時代や日本の状況も議論されており、あわせて読むことで現代社会・政治への理解が拠り一層深まるであろう。
 第一章ではリベラル・デモクラシーの成立と衰退の背景、第二章ではリベラル・コンセンサスとその反動として反リベラル連合が誕生した経緯を描き、第三章は歴史が人びとを分断する背景を、第四章は宗教的原理主義が蔓延るようになった背景を説明している。そして、第五章ではこれらの現象の起源として1968年の意味を探求している。それぞれ関心があるテーマごとに各章を読んでも面白く勉強になるが、各章の内容は関連しているので、まずは通読することをオススメする。
 本書のテーマのひとつは、タイトルにもあるように「リベラル」である。近年では、かつてリベラルの価値を掲げていた知識人ですらもリベラルを批判するようになっているが、著者は「リベラルな価値を手放したところで、それを代替する何かができあがるわけではない」として、「リベラルなメディアや言論の政治的スタンスや価値観(人権擁護や護憲)の揚げ足取りに終始している」ような「リベラル批判に与しない」というスタンスだ(289)。そして、リベラリズムの不整合を乗り越えるヒントはリベラリズムそのものに備わっているとして、リベラリズムの「請け戻し」を唱え、このように述べる。

重要なのは、共同体・権力・争点とも対応する、このアイデンティティ・個人・主体という三角形の均衡と相互の緊張関係である。これまでみてきた事例でいえば、あまりにも強いアイデンティティは例えば宗教原理主義を、あまりにも強い個人の要請はナルシシズムを、あまりにも強い主体の要求は経済的不平等をそれぞれ招き寄せてしまう可能性がある。この三角形を個人と社会のレベルにおいて、意識的かつ反省的に発展、均衡させていくのが、これから「請け戻される」リベラリズムの姿となるだろう。(299-300)

そして、「リベラリズムの最大の強みは、それ自体が多様な意味合いを持っていることにある」(301)として、次のように指摘している。

めざすべきは人間性の剥奪に抵抗するリベラリズムの構想だ。その担い手となる個人を社会リベラリズムによって育て、政治リベラリズムによる闘いへと誘い、開かれた個人主義リベラリズムを生むような整合的なリベラリズムも考え得る。(300)

そう、リベラリズムは多様であり、「目的としての地位に安住するものではなく」、「抵抗と闘争の手段だった」(297)のだ。それはリベラリズムという思想が曖昧で不安定ということを意味しない。その多様性を武器にして、現代社会の問題に取り組んでいく必要がある。
 また、本書においては「ウーバー化」もキーワードの一つである。

社会階層に包摂されていた個人は、自分自身の資本にしか依存することができなくなり、以下の章でみていくような「ウーバー化」のプロセス、すなわち個人のアイデンティティを駆動力とした政治が展開されていくようになる。(79)

新自由主義の波を被ったこうした労働者階級層も、個人主義的な価値観を身につけ、労組を通じた「階級闘争」より、個人の努力と勤勉を通じた社会的上昇を志向する「ウーバー化」のプロセスを経験するようになる。(130)

集合的記憶はこの個人と個人との間のつながりや絆を提供するもの、共有できる物語として機能する。醸成される人びととの結びつきは、共有される記憶や体験によって強まっていくことでさらに強化され、それが今度は自分がどのような世界に生きているのかについて意味を与え、個人は自尊心(自己愛)を得ることになるわけだ。個人が主張し、担うだけの「ウーバー化」した歴史は、歴史としての役割を果たせないのだ。(173)

当然とされていた歴史や伝統が失われていけば、人びとは自らのアイデンティティをパッチワーク的かつ恣意的に、主体的に選択し、創造していく「再帰的近代」に生きるしかない。そこで立ち現れるもののひとつが宗教的なものへの希求だ。つまり、もはや宗教が個人を操るのではなく、個人が宗教を利用することになる。…
ここでは、宗教は、「信仰の体系」ではなく、「個人の信仰」へと解消される。本書でいう宗教の「ウーバー化」だ。(224-5)

企業や組織の一員としてではなく、一人の自律した個人であることを良しとする点では、先のテロと同じように、社会運動も「ウーバー化」しているといえよう。(240)

このような状況においては、著者も言うように、「集団的で組織的な行動や、制度的な補完が伴わなければならない」のであり、「個人と集団が…ともに両立しなければ、社会を変えることはできない」のである(275-6)。そして、そのためにはリベラルという理念を再度喚起する必要があり、本書はその重要な一歩となるだろう。

 

斎藤幸平『人新世の「資本論」』

 実に痛快かつ明快な一冊だ。著者は、本書の冒頭で読者にこう問いかけている。

温暖化対策として、あなたは、なにかしているだろうか。レジ袋削減のために、エコバッグを買った?ペットボトル入り飲料を買わないようにマイボトルを持ち歩いている?車をハイブリッドカーにした?
はっきり言おう。その善意だけなら無意味に終わる。それどころか、その善意は有害でさえある。(3)

その他にも、「SDGsはまさに現代版「大衆のアヘン」である」(4)、ロックストロームに拠りつつ、気候ケインズ主義を「現実逃避」(91)、IPCCの報告書を「学者たちの「知的お遊び」」(94)とも批判している。このように、気候変動に対する現在の取り組みについて忌憚なく批判していく姿勢は痛快である。
 しかし、著者は批判だけに止まることはなく、来るべき社会構想と、その実現に向けたプロセスを明快に説明していく。また、「人新世」や「資本主義」、「本源的蓄積」といった概念についても、ごまかすことなくわかりやすく説明しているため、一般読者にとっても読みやすいものになっている。例えば、資本主義については次のように説明している。

資本主義とは、価値増殖と資本蓄積のために、さらなる市場を絶えず開拓していくシステムである。そして、その過程では、環境への負荷を外部へ転化しながら、自然と人間からの収奪を行ってきた。この過程は、マルクスが言うように、「際限のない」運動である。利潤を増やすための経済成長をけっして止めることがないのが、資本主義の本質なのだ。(117)

そして、このような「資本主義こそが、気候変動をはじめとする環境危機の原因にほかならない」(117)ため、資本主義システムを維持しつつ問題を解決するのではなく、システム転換が必要になるのだ。
 そこで著者が描く未来の選択肢が、「強い国家に依存しないで、民主主義的な相互扶助の実践を、人々が自発的に展開し、気候危機に取り組む」ような「公正で、持続可能な未来社会」(115)、「脱成長コミュニズム」(197)であり、これは「マルクスが最晩年に目指したコミュニズム」(195)でもある。そして、コミュニズムとは<コモン>*1を再建する試みであり、著者はこれを「<市民>営化」(259)と名付け、電力ネットワークや「ワーカーズ・コープ(労働者協同組合)」を一例として挙げている。
 そして、<コモン>の議論は民主主義の問題に通じており、次のように指摘する。

限界はあくまでも私たちがどのような社会を望むのかによって、設定される「社会慣行的」なものである。限界の設定は、経済的、社会的、そして倫理的な決断を伴う政治的過程の産物なのだ。(274)

人々がどのような世界に住みたいかという価値判断は、本当は、将来世代の声も可能な限り反映しながら、民主的に熟議や論争を通じて、決定されなくてはならない。(275)

ここで脱成長コミュニズムという未来を選び取るためにモデルとする人間像が「自己抑制」であり、「自己抑制を自発的に選択すれば、それは資本主義に抗う「革命的」な行為になる」(276)とのことだ。
 これらを踏まえた上で、「脱成長コミュニズムへの跳躍に向けて、私たちがなすべきこと」(300)として、①使用価値経済への転換、②労働時間の短縮、③画一的な分業の廃止、④生産過程の民主化、⑤エッセンシャル・ワークの重視」という5つの柱を掲げている。そして、その萌芽は「フィアレス・シティ」(328)のようなかたちで現れている。
 本書を読み進めていくなかで疑問に思っていたのが「国家」の在り方の問題であるが、著者はそこからも目をそらさず、「気候変動の対処には、国家の力を使うことが欠かせない」(355)として、「国家の力を前提にしながらも、<コモン>の領域を広げていくことによって、民主主義を議会の外へ広げ、生産の次元へと拡張していく必要がある」(356)と指摘している。
 では、国家の力や自治体の力の「大きさ」、<コモン>の領域の広がり方、これらには普遍的な「正しさ」「正解」はあるのか、それらも熟議や論争を通じて決定されるようなものなのか、そして<コモン>の領域が広がった結果としてでも必要となるものは「国家」と呼べるものなのか、一読したところこれらの問いは残ったが、本書の中に答えは示されているのかもしれない。論理は明快だが、一読しただけでは捉えきれないような壮大な構想が描かれているため、私が掴み損ねている点もあるだろう。
 また、本書は最新のマルクス研究に基づく実践書でもあり、理論の実践的応用を学ぶ上でも非常に参考になる。現代社会に対して危機意識を持っている誰もが触発される、価値ある一冊だ。

人新世の「資本論」 (集英社新書)

人新世の「資本論」 (集英社新書)

  • 作者:斎藤 幸平
  • 発売日: 2020/09/17
  • メディア: 新書
 

 

*1:<コモン>は、水や電力、住居、医療、教育といったものを公共財として、自分たちで民主主義的に管理することを目指す(141)

重田園江『フーコーの風向き-近代国家の系譜学』

 「新型コロナウイルスの流行は、フーコーの思想が持つ力を再度示したと言えるだろう」(16)と多くの人が思っているところに、重要なフーコーの研究書が出版された。著者は「時代の趨勢から微妙な距離を取ることで、フーコーの思想は結果的に、その後明らかになる新しい状況に対して高い説明能力を有することになった」(13)と指摘しているが、その言葉は著者自身にもあてはまるであろう。本書に収録された論考は、1990年代に執筆されたものが中心であるが、これらの論考はコロナ禍という新しい状況に対して高い説明能力を有するものとなっている。なお、既出の論考に対しては、章ごとに書き下ろしのコラムがあり、現在の視点から読む上でも参考になる。
 本書のテーマは、副題で示されているように「近代国家の系譜学」であるが、フーコーの入門書としても優れている。それは読みやすいという意味での入門書ではなく、フーコーの思想の主要テーマである「知」と「権力」について第1章で詳しく解説し、第2章以降がその実践となっているからだ。
 新型コロナウイルスとの関連では、「国家理性」や「生権力」、「人口」といった概念を整理している第2章が特に参考になる。また、菅政権が唱える「自助・共助・公助」について、「自己への配慮」という晩年のフーコーのテーマを糸口にして、「自己決定の権利と他者への配慮とを対立させ、どちらかを選択するのとは異なったしかたで、自己について、配慮することについて、また共同体の規範と個人の生き方との関係について考え」(69)ていくことが、その問題を解明するためのヒントになるだろう。
 本書で最も興味深かったのは第Ⅲ部の「新自由主義の統治性」である。第9章はフーコーのオルド自由主義論で1996年に執筆されたもの、第10章は書下ろしであり、「新自由主義とは何だったのかを、九〇年代から三〇年間の知的文脈の中に置いて考えてみた」(356)ものだ。フーコー新自由主義理解だけではなく、フーコー以降の新自由主義論や、新自由主義と官僚制の問題についても言及されている。また、「フーコー福祉国家型の統治に対して新自由主義型の統治を評価し、そのパフォーマンスを称賛していた」という見方に対して、「たしかにフーコー自由主義の統治が有する包括性と新しさに感嘆している」が、「そのことと、新自由主義を「価値」として奉じたかどうかはまた別の話である」(346)として、次のように指摘している点も重要だ。

これについて判断したいと思う読者には、フーコーの講義集成に収録されたインタヴューや座談会での発言、またエリボン『ミシェル・フーコー伝』などの伝記的著作、そして一九八〇年代にフーコーが追い求めた「自己のテクノロジー」のテーマ系の作品を読むことを勧める。それらを読み、フーコーという人物、そしてその思考の好みと論じ方のくせなどに触れれば、彼が新自由主義を称賛していたとはとても思えなくなってくるはずだ。(347)

 その他、ヒュームの議論との対比(第5章)、アーレントやシュミットとの対比(第9章)なども刺激的で面白く、フーコーの思想に対する理解を深めてくれる。フーコーを読み解く上で、また現代社会について考察する上で必読の一冊である。

フーコーの風向き: 近代国家の系譜学

フーコーの風向き: 近代国家の系譜学

 

 

牧原出『行政改革と調整のシステム』『「安倍一強」の謎』『崩れる政治を立て直す』

 宇野常寛氏は、「平成とは「失敗したプロジェクトである」」と述べ、「政治」(二大政党制による政権交代の実現)と「経済」(20世紀的工業社会から21世紀的情報社会への転換)の「改革」のプロジェクトが失敗した時代として「平成」を位置づけた(『遅いインターネット』11)。確かに、このような「物語」に納得する人は多いと思われる。しかし、「政治」の領域においては、必ずしも「失敗」とは言い切れない重要な改革があり、そのことをわかりやすく説明・分析しているのが、牧原出『行政改革と調整のシステム』『「安倍一強」の謎』『崩れる政治を立て直す』だ。
 では、重要な改革とは何か。それは省庁再編とその一要素である内閣機能の強化である。その改革プロセスと意義、そして制度の作動の実態を明らかにしているのが先に挙げた3冊である。『行政改革と調整のシステム』は、「調整」概念に注目して戦前と戦後の制度構造とその運用実態を明らかにしている。そして、Ⅳ章のなかで省庁再編について触れ、「省庁再編の結果、「総合調整」の「総合調整」の強化として内閣官房が強化され、他方で多少の摩擦があったとしても低い財政コストのもとで短期に「二省間調整」を強行する仕組みが整備された」(186)としている。この改革の流れは意思決定の強化と政府情報の透明化を促すものであった。また、本書では小泉内閣安倍内閣が比較されており、安倍内閣においては官邸の「調整力」が不足しており、その結果「「首相の指示」のみで政策形成を図ろうとすれば、その破綻はごく自然な成り行きであった」(262)ということが指摘されている。
 そして、『「安倍一強」の謎』では、第2次安倍政権が内閣機能の強化という方向を引き継ぎつつも、「官邸を中心に少数の閣僚で問題を処理する態勢を組んだ」(77)という従来の改革とは異なる点が指摘されている。この「官邸主導」において注目すべきなのが内閣官房長官の影響力の増大であり、菅義偉内閣官房長官である。菅官房長官は「情報を一元的にコントロールする体制を作り上げ」、「官僚に対する政治の優位も確立」(90)し、「負荷に強い役割に耐えられる制度基盤を作り上げた」(91)のだ。本書においては、菅義偉という政治家の特徴も分析されており、これからの政治を見ていく上でも参考になる。
 このような安倍政権が「政権の主要な幹部の交代がないまま安定政権となるかと思いきや、日本の政治史にこれまで見られなかった真新しい現象として、衝撃を与えたのが「行政の崩壊である」(56)と指摘しているのが、『崩れる政治を立て直す』だ。本書は制度とその運用、政と官との差異に注目しつつ、各政権を分析している。ここで興味深いのが、制度の作動という観点から見た、次のような政治区分である。

安定した官邸主導:小泉政権

   ↓

制度作動の失敗:第一次安倍政権

   ↓

制度作動の債権と透明性確保:福田・麻生政権

   ↓

制度作動の抜本的変更と透明性進展:民主党政権

   ↓

制度作動の更なる変更:第二次以降の安倍政権

このような政治区分を設定することにより、「政権交代」という枠組みだけでは見えてこない、制度改革の実態が見えてくる。そして、第二次以降の安倍政権についてはこう述べる。

第二次以降の安倍政権は五年半を経て多くの困難な課題に直面している。それは、政権の強みが弱みに転じたために起こったと言える。内閣強化と政権の維持のため、政権中枢の少数の官僚がトップダウンで意思決定を行い、それを各省に強制する。官邸による人事によって、各省の幹部は政権の意向を最大限認める官僚で占められる。ここまでは制度を作動させることに成功している。だがそれが各省の現場との間で深刻な亀裂を生んだ。…政権の統制が利かないという事態に立ち至っている。(87-8)

 以上のような分析を見ていくと、政治改革というプロジェクトは失敗に終わったという「物語」は、重要な成果を不可視化してしまい、それこそが政治改革の失敗を招く事になるだろう。重要な政治改革は行われており、その制度運用も成功したときもある。今はその制度の作動面における問題が生じているのであり、過去の政治改革そのものを「失敗」と位置づけるべきではない。制度作動・運用の失敗から学ぶべきであり、私たちはそのお手本を目の前にしている。単純な政治の「物語」ではなく、複雑な制度とその作動を論じた牧野氏3部作は、「政治」と向き合う「知」を読者へ与えてくれるであろう。

行政改革と調整のシステム (行政学叢書)

行政改革と調整のシステム (行政学叢書)

  • 作者:牧原 出
  • 発売日: 2009/09/01
  • メディア: 単行本
 
「安倍一強」の謎 (朝日新書)

「安倍一強」の謎 (朝日新書)

  • 作者:牧原 出
  • 発売日: 2016/05/13
  • メディア: 新書
 

 

『創造観光2017~Magical I-marginal-y Tour~』

 まちあるきのツアー本だが、本書を読んで思い浮かべた哲学者がいる。そのうちのひとりがジャック・デリダだ。なぜか?それはツアーのプログラムに組み込まれた短編小説の内容と、小説に出てくる「相田家」の設定による。その設定とは、「相田家は、典型的な「無自覚にマジョリティで上中流」の家庭として造形」(46)されたもので、極端にデフォルメされているものの、作者である汐月さんの生家がモデルになっているということだ。小説は、相田家の人びとの「夢」と「現実」から編成され、それがツアーで巡る各スポットや土地で朗読される。
 なぜこれらのことからデリダを思い浮かべたのか。それは先述したプログラムの構成=創造観光2017に、デリダの「例」の実践を感じたからだ。デリダは『マルクスの亡霊たち』のなかで「例」について次のように語っている。

例というものは、つねに自分自身を超えておよぶものである。かくして、例は遺言的な次元を開く。例なるものは、まず第一に他者にとってのものであり、自己自身を超えたものである。(86)

また、『パッション』においてはこう述べている。

私は範例の<まさにこのもの(todeti)><これ(ceci)>を溢れ出すなにものかを言っている。それとしての範例そのものは、自らの単独性=特異性を溢れ出し、自らの同一性も溢れ出す。(39)

もし私が、自分は私について書くのではない、そうではなく「私」について書くのだ、あるなんらかの私について書くのだ、あるいは私一般について、一つの範例を提出しながら書くのだ-私は一つの範例にほかならない、もしくは私は範例的なのだ、と言うとすれば(あるいは言外に主張するとすれば)、そのとき、だれも真剣なやり方で私に反駁することはできないだろう。私はあるもの[quelque chose](「私」)について語る。それは、あるもの(一つの「私」)の範例[un exemple de quelque chose (un≪moi≫)]を与えるためである。(94)

汐月さんは、短編小説を朗読上演するという試みを通じて、ツアーで巡るスポットや土地にまつわる物語と相田家の「夢」と「現実」の物語を関連付けることにより、自己の個別性を普遍性へと開かれたものとしている。このような創造観光という実践には、デリダの「例」の思考が刻まれているのだ。
 小説の内容やツアーで巡った場所の詳細は本書を手に取ってぜひ読んでほしい。各スポットの写真や後日談ダイアローグも収録されており、ツアーの雰囲気も楽しめる。そして、「現在のまちの景色と空気に文脈を与えているのは、かつてそこに生きた人々だ」(4)という感覚を呼び覚まし、日ごろ見ている景色の「見えかたが変わる」(51)きっかけを与えてくれる。このような点において、本書は単なるまちあるきツアー本ではなく、「文学」と名指すことができる一冊と言えるだろう。

文学は…「範例」となっている。文学はつねに他のもの「autre chose」であり、他のものを語り、他のものをなす。自分とは別の他のものを、そもそも自分自身が、それにほかならない、すなわち自分自身とは別の他のものにほかならない。(『パッション』96)

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