yamachanのメモ

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『創造観光2017~Magical I-marginal-y Tour~』

 まちあるきのツアー本だが、本書を読んで思い浮かべた哲学者がいる。そのうちのひとりがジャック・デリダだ。なぜか?それはツアーのプログラムに組み込まれた短編小説の内容と、小説に出てくる「相田家」の設定による。その設定とは、「相田家は、典型的な「無自覚にマジョリティで上中流」の家庭として造形」(46)されたもので、極端にデフォルメされているものの、作者である汐月さんの生家がモデルになっているということだ。小説は、相田家の人びとの「夢」と「現実」から編成され、それがツアーで巡る各スポットや土地で朗読される。
 なぜこれらのことからデリダを思い浮かべたのか。それは先述したプログラムの構成=創造観光2017に、デリダの「例」の実践を感じたからだ。デリダは『マルクスの亡霊たち』のなかで「例」について次のように語っている。

例というものは、つねに自分自身を超えておよぶものである。かくして、例は遺言的な次元を開く。例なるものは、まず第一に他者にとってのものであり、自己自身を超えたものである。(86)

また、『パッション』においてはこう述べている。

私は範例の<まさにこのもの(todeti)><これ(ceci)>を溢れ出すなにものかを言っている。それとしての範例そのものは、自らの単独性=特異性を溢れ出し、自らの同一性も溢れ出す。(39)

もし私が、自分は私について書くのではない、そうではなく「私」について書くのだ、あるなんらかの私について書くのだ、あるいは私一般について、一つの範例を提出しながら書くのだ-私は一つの範例にほかならない、もしくは私は範例的なのだ、と言うとすれば(あるいは言外に主張するとすれば)、そのとき、だれも真剣なやり方で私に反駁することはできないだろう。私はあるもの[quelque chose](「私」)について語る。それは、あるもの(一つの「私」)の範例[un exemple de quelque chose (un≪moi≫)]を与えるためである。(94)

汐月さんは、短編小説を朗読上演するという試みを通じて、ツアーで巡るスポットや土地にまつわる物語と相田家の「夢」と「現実」の物語を関連付けることにより、自己の個別性を普遍性へと開かれたものとしている。このような創造観光という実践には、デリダの「例」の思考が刻まれているのだ。
 小説の内容やツアーで巡った場所の詳細は本書を手に取ってぜひ読んでほしい。各スポットの写真や後日談ダイアローグも収録されており、ツアーの雰囲気も楽しめる。そして、「現在のまちの景色と空気に文脈を与えているのは、かつてそこに生きた人々だ」(4)という感覚を呼び覚まし、日ごろ見ている景色の「見えかたが変わる」(51)きっかけを与えてくれる。このような点において、本書は単なるまちあるきツアー本ではなく、「文学」と名指すことができる一冊と言えるだろう。

文学は…「範例」となっている。文学はつねに他のもの「autre chose」であり、他のものを語り、他のものをなす。自分とは別の他のものを、そもそも自分自身が、それにほかならない、すなわち自分自身とは別の他のものにほかならない。(『パッション』96)

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