yamachanのメモ

日々の雑感や文献のメモ等

箱田徹『ミシェル・フーコー 権力の言いなりにならない生き方』

 本書は、現代思想の代表的人物の一人であるミシェル・フーコーの思索を、「一九七〇年代後半から八〇年代前半の「後期」と呼ばれる時期を中心に」(5)論じている。なぜ「後期」に注目するのか。それは、この時期に展開されたフーコーの思想は、「理論的かつ実践的に捉えられた現在の社会のありようにたいして、主体がいかに関わるのかという問いを改めて提起するものとてしても読むことができる」(9)からだ。
 注目すべきは「拒否」という態度である。「はじめに」で著者は次のように述べる。

社会が大きく動きとき、そのきっかけはしばしば、人びとが何かを積極的にしないこと、いつも当たり前のようにして行われていることを拒むことにある。広場革命にも気候ストライキにもそうした側面がある。この「拒否」という態度の力強さは、誰もがある程度はわかっているが積極的に目を向けようとはしないことについて、それはおかしいと言い切り、否を突きつけるところにある。そうした振る舞いは、それまで当たり前だと思われていたこの世界の日常から自明性を剥ぎ取るからだ。(3)

世界の日常からの自明性の剥ぎ取り、つまり「いま現在ここにあるものがこれまでもあったし、これからもあるだろという思い込みからみずからを断ち切るという決断」(95)が、歴史を変容させる大きな流れとなる。

政治経済的な要因では説明しきれない何かが起きるとき、その原動力となるのが、フーコーの統治論からすれば、このようには統治されたくないという耐えがたさと拒否の意志であり、みずからがいまという固有な時のただなかにいるという、ここから先はみずからの選択によって変わりうるという、モダンな-時代区分としての「近代」には限られない「いま」についての-感覚なのである。(95)

 現代の統治において、「このように統治されたくないという耐えがたさ」を抱いている人は少なくないだろう。本書はフーコーの統治論を通じて、そのような人たちに対して、「このようには統治されない」ための手がかり、自己と社会の新たな姿を構想する手がかりを与えてくれる。「私たちには、対抗導きの可能性はつねにすでに備わっている」(96)のであり、フーコーが示したように、しかしフーコーとは別のやり方で実践することが可能なのだ。

 

加國尚志・亀井大輔編『視覚と間文化性』

 本書『視覚と間文化性』は、1993年に出版され、2017年に日本語に翻訳された著作、マーティン・ジェイ『うつむく眼-二〇世紀フランス思想における視覚の失墜』に対して、「日本からの応答をなすもの」(4)である。『うつむく眼』で描かれた思想史からは見えてこない、視覚を巡る思想史が各論者により展開され、「「新たな」ことがらを現れさせる可能性」*1を持った刺激的な内容となっている。
 まずは、マーティン・ジェイ「融合する地平?-日本における『うつむく眼』」を読むのがよいだろう。『うつむく眼』が引き起こした反響や、日本特有の視覚体制について論じている。これらの議論を通じて、「視覚性」に対するジェイの問題意識を理解することができ、その他の論考を理解する手助けとなるだろう。
 以降は各章を収録順どおりに読み進めてもよいが、『うつむく眼』以降の30年間のフランス現代思想を知るうえでも、編者の一人である加國尚志氏の「メルロ=ポンティの知覚論-マーティン・ジェイ『うつむく眼』の周囲で」が参考になる。加國氏は、ジャック・ランシエールジョルジュ・ディディ=ユベルマンらの「イメージ」論から、「二〇世紀のフランス思想において、「イメージ」の概念が「失墜した」とは簡単には言えないように思われる」(195)として、次のように述べる。

私たちの眼は、うつむいたままではなく、ときには見上げたり、まばたきを繰り返したりしながら、あふれかえるイメージの中をさまよい、そこに欠けているイメージを求め、そのイメージが、それ自身を見せながら何かを「見えるようにする」ことを待っているのである。(200)

『視覚と間文化性』に通底しているのは、視覚に対するこのような「ゆらぎ」や「両義性」である。例えば、もう一人の編者である亀井大輔氏は、デリダの視覚に対する両義的な特徴を踏まえ、「絶対的に不可視なものとは、視覚を可能にするものであると同時に、視覚を他なるものへと開き、諸感覚どうしの代補的関係を打ち立てるものである」(302)と指摘している。
 そして、本書のタイトルにもある「間文化性」に着目しつつ、視覚と触覚との関係について論じているのが、横田祐美子「空気に触れる眼-イリガライと触覚的視覚」である。本論文は、楳図かずおの作品や美術展、眼圧検査といった身近なものにも根ざしつつ視覚文化を解きほぐしており、哲学や思想に詳しくない読者にとっての導入にもなるだろう。また、次の言葉からは、「女性的なもの」に対する横田氏の意気込みを感じ取ることができる。

空気は、水は、女性的なものは、そこにあるだけでその存在に気づかれることがほとんどない。ひとびとを触覚へと立ち返らせるためには、壁を通り抜けるほど強く吹くことが、容器から溢れ出すことが、ときには必要となってくる。それはいわば女性的なものが吹き荒れる反乱であり、氾濫だ。(262)

 また、SNSの視覚体制やバンクシーの作品・活動について分析している、日暮雅夫「視覚と新自由主義」も、視覚文化を理解する導入としてよいだろう。現代社会での過剰に可視化されていく状況に対して危機感を覚える一方で、「「見えないもの」とされていた人々や社会問題を「見えるもの」としようとする」(328)試みは、引き続き必要とされているのだ。
 モーリス・メルロ=ポンティは、「哲学をたたえて」において、「哲学者が哲学者として認められるのは、<明証性>にたいする眼と、<両義性>にたいする感覚とを不可分に合わせもつことによってです」*2と語っていた。「視覚」はまさにこの「両義性」という性格を有するものでもあり、それ故に本書に収録された各論文の記述方法や各論者の思考方法もまた両義的であることを避けられないだろう。そして、これらの視覚文化論を通じて見えてくるのは、「両義性」という人間の条件である。「視覚」というテーマ以上の広い射程を持った一冊である。

 

*1:谷徹編『間文化性の哲学』ⅸ

*2:『眼と精神』199

齋藤純一・谷澤正嗣『公共哲学入門-自由と複数性のある社会のために』

 多くの人々に「開かれた」公共哲学の新しい教科書が出版された。カント、アーレントハーバーマスといった公共哲学の歴史、功利主義リベラリズムリバタリアニズム、ケイパビリティ・アプローチといった公共哲学の理論、不平等、社会保障、デモクラシー、フェミニズム、国際社会の諸問題に対する公共哲学のアプローチが論じられている。私の学生時代に本書を読めなかったことが口惜しい。
 本書は、公共哲学の特徴を次の3つの「閉じていない」から説明している(4-5)。

・公共哲学が考察しようとする対象(問題領域)が「閉じていない」。
・公共哲学の担い手が「閉じていない」。
・公共哲学という探求のプロセスが「閉じていない」。

そして、このような「閉じていない」公共哲学は、サブタイトルにもある「自由」と「複数性」のある社会を展望する。公共哲学の歴史を通じて、この問題意識が引き継がれていることが示される。
 功利主義リベラリズムリバタリアニズムを論じる各章では、それぞれの理論の概要と、理論同士の関係がわかりやすく説明されている。特に注目すべきは、ロールズ的なリベラリズムと新しいリベラリズムの共通点として、「自らの善の構想に沿って合理的に人生を計画し遂行しようとする人格という人間理解」(135)を挙げている点だ。このような人間理解に対して、「人間の生における本質的な脆弱性や依存という事実を見落として、あるいは過小評価していないだろうか」(135)と投げかける。この問題意識が、フェミニズムの公共哲学と関連することとなる。
 「フェミニズムこそ、公共的な争点に関する哲学的考察の意義を最も明らかに示すものだと言える」(241)、「公共哲学の主要概念に対して、新たな角度からの解釈や分析を可能にしてくれたのがフェミニズムなのである」(242)として、フェミニズムを公共哲学の観点から検討していることは、本書の特徴の一つである。ジェンダー、家父長制、ケアといった概念を取り上げ、「フェミニズムが複数性と自由のある社会を目指す探求の出発点の一つであることは疑いない」(262)とも述べる。
 フェミニズムに限らず、現代者社会が直面している社会保障やデモクラシーといった問題も、公共哲学の観点から論じられている。著者の一人である齋藤純一氏は長年、社会保障のあるべき姿について理論的かつ具体的な構想を示しており、本書は現時点における到達点といえよう。しかし、ここで問いと議論が「閉じる」のではなく、むしろ「開かれる」のだ。
 参考文献も充実しており、学生にとっては(そして教員にとっても?)本当にありがたい教科書である。そして、授業が終わってこの本を一旦「閉じる」ことはあっても、日々の生活で問題と直面した時や社会に違和感をもった時等に、再び「開いて」ほしい。本書は私たち市民にとって「開かれたもの(open)」として、また「共通のもの(common)」として「公共性」を持つ一冊である。

 

塩田潤『危機の時代の市民と政党-アイスランドのラディカル・デモクラシー』

 これほど本格的にアイスランドの政治社会を論じた研究書はおそらくないだろう。「地域研究は他の学問分野に比して、潜在的に分野横断的、学際的性質が高い」(25)という言葉通り、アイスランドの民主主義の動態を理論的・実証的に、そして領域横断的に描いている。
 「私とアイスランドの出会いはほとんど偶然的なものであった」(268)とのことだが、塩田さんの「「アカデミア」と「路上」」での(269)経験が、アイスランドという地域研究に向かわせたのには必然性を感じる。そして、「危機の時代における政党民主主義の動態を捉えることこそ、本書の課題である」(20)とあるように、本研究の射程はアイスランドに留まらない。現代民主主義の限界と可能性を捉えるために、アイスランドに目を向ける必然性があるのだ。
 本書はアイスランドの政治支配体制を論じた上で、ポスト金融危機憲法改正の取り組みと、ポスト金融危機後に設立されたアイスランド海賊党について分析している。憲法改正の分析においては、脱政党的政治参加の可能性だけではなく、その困難を明らかにしている点が重要である。「アイスランドの事例は市民による政党的政治参加の豊かな実践例であると同時に、そうした市民の政治参加を通して目指された憲法改正という目標が、既存の制度的代表者たちに阻まれた事例でもある」(94)のだ。憲法改正の熟議的側面だけでは捉えることのできない民主主義の動態を、政党政治との関係性を視野に入れることで見事に描いている。
 そして、憲法改正のための市民熟議が「アイスランド海賊党の集合的アイデンティティ構築に寄与した」点が明らかにされ、「市民熟議は政党なき民主主義の流れを加速させるのではなく、むしろ政党中心の民主主義にとっての推進力にさえなりうる」(163)ことが示される。また、アイスランド海賊党の組織的特徴として、特定のイデオロギーを持たず、敵対的性格が強いことが挙げられており、著者はこれを「下からのポピュリズム」(213)と呼んでいる。
 「下からのポピュリズムとはエリートによる支配的な言説枠組みに抗して、市民がつくり上げる枠組みを用いたポピュリズム」(234)であり、この下からのポピュリズムによって台頭している運動政党から、政党政治研究における「有権者の合理主義的アプローチの見直し」(241-2)と「受動的で固定的な有権者像の刷新」(242)を提示している。そして、ここから「ラディカル・デモクラシー」の契機を見出す。

ラディカル・デモクラシーの描く「オルタナティブな民主主義」とは現行の民主主義やそのシステムを再民主化し続けるなかに立ち現れるものだと言える。したがって、いま眼前にある現実を直視し、そこから民主的な社会を目指して繰り返し、繰り返し行為することそのものがラディカル・デモクラシー的な実践にほかならないのだ。(250)

 本書で描かれたアイスランドの政治的取り組みは、「ラディカル・デモクラシー的な実践にほかならない」(257)と言えるだろう。「アイスランドの経験が示唆しているのは、制度内外での市民による批判的政治介入こそが、政党の代表機能を活性化させる契機となるということ」(257)なのだ。著者が主張するように、「私たちは政党を放棄するのではなく、政党を民主主義のさらなる民主化に向けた足場としなければならない」(261)。

開かれた未来に向けて、つねにその可能性に賭けて行為し続けることができる、私たちはまだ他者とともに生きようとすることができるか、一人ひとりの生が問われている。私たちの行為、ただそれのみが私たちの住む世界を変革する。だからこそ、私たちはまた跳び、踊るのである。(264)

繰り返そう。本書の研究対象はアイスランドであるが、その射程は私たちにまで及ぶ。優れた地域研究とはそういうものであろう。「終わったなら始めよう」(269)、今こそこの言葉を思い返すべきだ。民主主義の動態と政治への希望を描いた必読の一冊である。

 

松葉類『飢えた者たちのデモクラシー レヴィナス政治哲学のために』

 本書は、著者である松葉氏が経験した「一人の物乞い」の出来事から始まる。「本書を執筆しながら、私は何度もこの出来事と向かうことになった」(ⅱ)ようだが、私たちもまたそれぞれの具体的な状況を思い浮かべながら本書を読むことになる。レヴィナス政治哲学は、具体的状況・現実的な問題圏と共にある。
 タイトルにもある「飢え」と「デモクラシー」、これらがレヴィナス政治哲学を読み解くためのキーワードとなる。まず、レヴィナスにおける政治的主体は、「特異性と複数性とが二重化された存在」(32)であり、「他者との出会いによって意味づけ直されながら、社会において無数の他者たちの中に投げ込まれている」(69)のである。このことがデモクラシーの問題と深く関係することとなる。
 また、レヴィナスにおいては「飢え」が特権的な位置を占めており、「根源的な仕方で「飢え」の哲学を構想した」と著者は指摘している。この「飢え」の問題は、時間の領域と身体の領域という二つの領域にまたがっている。これら物質性という条件は、閉鎖的な共同性を構成するのではなく、「「飢えた者たちのための政治」の可能性」(130)に開かれうるものである。
 このような思考の先にある、レヴィナスにとってのデモクラシーとは何か。「その本質は、あらゆるそれぞれの政治体制にもかかわらず、そのつど政治が「よりよいもの」に向かって再開されうるということそのものにある」(143)と松葉氏は指摘している。そして、「市民と他者、両者へのせめぎあいことがデモクラシーを成立させるのではないか」(167)として、次のように述べている。

レヴィナスにおいて思考されるべきは、調和的なデモクラシーではない。そうではなく、つねに既存の政治的責任と倫理的責任のせめぎあいの場でありうるような、いわば分断を孕んだデモクラシーである。(168)

つまり、「政治は何らかの統一的かつ単一的な理念性をもつことはできず、必然的に不協和を孕んでいる」(219)のである。

 「レヴィナスは、倫理学の思想家であると同時に、政治の意味を問う政治哲学の思想家でもあることになる」(ⅲ)、本書を読み終わった今、「はじめに」のこの言葉が思い浮かぶ。レヴィナスの政治哲学を読み解く上ではもちろん、現代のデモクラシーが直面する問題を考える上でも重要な一冊である。