yamachanのメモ

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松葉類『飢えた者たちのデモクラシー レヴィナス政治哲学のために』

 本書は、著者である松葉氏が経験した「一人の物乞い」の出来事から始まる。「本書を執筆しながら、私は何度もこの出来事と向かうことになった」(ⅱ)ようだが、私たちもまたそれぞれの具体的な状況を思い浮かべながら本書を読むことになる。レヴィナス政治哲学は、具体的状況・現実的な問題圏と共にある。
 タイトルにもある「飢え」と「デモクラシー」、これらがレヴィナス政治哲学を読み解くためのキーワードとなる。まず、レヴィナスにおける政治的主体は、「特異性と複数性とが二重化された存在」(32)であり、「他者との出会いによって意味づけ直されながら、社会において無数の他者たちの中に投げ込まれている」(69)のである。このことがデモクラシーの問題と深く関係することとなる。
 また、レヴィナスにおいては「飢え」が特権的な位置を占めており、「根源的な仕方で「飢え」の哲学を構想した」と著者は指摘している。この「飢え」の問題は、時間の領域と身体の領域という二つの領域にまたがっている。これら物質性という条件は、閉鎖的な共同性を構成するのではなく、「「飢えた者たちのための政治」の可能性」(130)に開かれうるものである。
 このような思考の先にある、レヴィナスにとってのデモクラシーとは何か。「その本質は、あらゆるそれぞれの政治体制にもかかわらず、そのつど政治が「よりよいもの」に向かって再開されうるということそのものにある」(143)と松葉氏は指摘している。そして、「市民と他者、両者へのせめぎあいことがデモクラシーを成立させるのではないか」(167)として、次のように述べている。

レヴィナスにおいて思考されるべきは、調和的なデモクラシーではない。そうではなく、つねに既存の政治的責任と倫理的責任のせめぎあいの場でありうるような、いわば分断を孕んだデモクラシーである。(168)

つまり、「政治は何らかの統一的かつ単一的な理念性をもつことはできず、必然的に不協和を孕んでいる」(219)のである。

 「レヴィナスは、倫理学の思想家であると同時に、政治の意味を問う政治哲学の思想家でもあることになる」(ⅲ)、本書を読み終わった今、「はじめに」のこの言葉が思い浮かぶ。レヴィナスの政治哲学を読み解く上ではもちろん、現代のデモクラシーが直面する問題を考える上でも重要な一冊である。