yamachanのメモ

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宮台真司・仲正昌樹『日常・共同体・アイロニー』

本書において、宮台真司氏はリベラリズムの「端的な事実性」を説いている。端的な事実性とは、「「人間とはこの範囲だ」とか「我われとはこの範囲だ」といった区別の線引きについての事実性」のことであり、「こうした事実性なくして機能しない」(64)として、リベラリズムを次のように説明している。

第一に、リベラリズムとは共同性へのコミットメントを前提とする思考だということです。リベラリズムは人びとの自由を支える前提条件を護持せよと命じる価値観です。この前提条件は、アダム・スミス的には他人の喜怒哀楽に同感できる可能性であり、ロールズ的には他人と立場を入れ替えても耐えられる立場可換性です。

それゆえ、第二に、リベラリズムはかならず、どの範囲までの他人を立場可換の対象とするかについての境界設定-人のなす区別-がともないます。もちろん、どの境界設定も端的な事実性にすぎません。だから境界設定に正統性(自発的服従契機)を与えようとする営みがたえず存在するし、境界設定の在処をめぐる闘争の可能性がたえず存在します。

それゆえ、第三に、オープンなリベラリズムは「人のなす区別を踏まえつつ、永久に信じずに実践する」脱構築プラグマティズムのかたちをとります。この立場は、威嚇を背景とした命令を使わずに、①「呼掛-応答」のコミュニケーションをつうじて、または②成人したときに自己決定で一定の境界設定を選ぶような生育環境の誘導をつうじて、なされます。(263-4)

つまり、「リベラリズムはつねにすでに共同性を前提にする」のであり、「その前提が与える暗黙の境界設定に敏感になったうえ、境界をズラす実践」(280)が求められるのである。

リベラリズムの共同性とそれを巡る「境界線の政治学」(杉田敦)は、現在においても実践レベルで要請されるものであろう。