yamachanのメモ

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上野千鶴子・鈴木涼美『限界から始まる』

 かつて細見和之さんは「書簡文化の終焉」を語ったことがあるが*1、本書が企画され、公開されることを前提とした、そして編集者を介した「往復書簡」であったとしても、「書簡」という形式だからこそ語ることができた、語ることになったことがあるだろう本書は、単なる対談記事とは異なる魅力を帯びている。もちろん、お互いに語らなかったことはあるだろうし、そこを見抜ぬいて指摘するやり取りを含め、それぞれが相手の内面を、そして自身の内面をも曝け出そうとする緊張感も伝わってくる。
 上野千鶴子さんと鈴木涼美さん、この二人の間で「手加減なしの言葉の応酬」(帯より)があったとしても共鳴し合っているのは、一つには社会学という共通のバックグラウンドを持っているからかもしれない。しかし、二人にはより重要な共通項がある。それは、混迷する時代において、それぞれの仕方で人・組織・社会と向き合い、その時々で常識とされている観念を言葉と行動によって組み換え、その実践を通じて自己を見つめ直していくという闘いをしていることだ。
 そして、このような闘いを経ているからこそ、二人の目は厳しくも優しい。

上野:「被害者」を名のることは、弱さの証ではなく、強さの証です。あなた自身が「被害者であることを恐れない態度」と書いているように。伊藤詩織さんが「私は性暴力の被害者だ」と名のることに、どれほどの勇気が要ったかを想像するだけで、じゅうぶんでしょう。(29)

鈴木:同世代の人たちに、そういう人が多いから余計に思うのかもしれませんが、強がって痛くないふりをしている態度も、「痛い」と声をあげる態度と同じくらい、私は尊いものだと感じます。荒々しい現実に負けずに踏ん張ってきた経験がそれぞれにあるからです。(307)

往復書簡は特定の相手とのやり取りであるが、これらの言葉は二人の間を越えて、さまざまな人のもとへと届くだろう。特に、書簡のなかで取り上げられている上野さんが鈴木さんへかけた「しかしあのお母さん(鈴木涼美さんの母親)も困ったもんだね」(60)、という言葉に関するエピソードは印象的だ。

鈴木:私は、その言葉を実は強烈に覚えています。エッセイの中で、母との断片的な会話をいくつか書いたのですが、周囲の反応は「素晴らしいお母さんのもとで育ったのですね」「知的なお母さんの言葉がとても印象的でした」といったものばかりでした。私自身、素晴らしい母の知的な言葉があったことに疑いは持ちませんが、その素晴らしさや知的さのもとに生み落とされた当事者としては、単純に喜ばしいことでは当然なく、「こちらにはこちらのもがきがあるけど、このわかりにくい苦味をなんと言えばいいのか」と逡巡していたので、「困ったもんだね」と瞬時に私の葛藤を見抜かれた時、私は息苦しい多くの評価の中で一気に酸素を与えられたように救われました。(61)

上野さんが、鈴木さんの「もがき」や「苦味」に対して「困ったもんだね」という言葉を与えたこと、そして鈴木さんがこのエピソードを覚えていて書簡で取り上げていること、おそらく、このやり取りを読んで救われた読者も多いのではないだろうか。
 本書の話題は「エロス資本」「母と娘」「恋愛とセックス」「結婚」「承認欲求」「能力」「仕事」「自立」「連帯」「フェミニズム」「自由」「男」という12のテーマのもと、多岐にのぼる。上野さんが言うところの「「構造と主体」の隘路をどう駆け抜けるのかという基本問題の応用編」(314)が描かれている。しかし、「構造と主体」という枠組みを超えたところにもまた、惹き付けるものがある。

上野:他人とはままならないものですが、それ以前に自分の身体というままならない他者とつきあわなくてはなりません。加齢とは、誰もが中途障害者になるようなものです。そして年齢を重ねるにつれて、わたしは精神も身体も、壊れものだと感じるようになりました。乱暴に扱えば、心もカラダも壊れます。壊れものは壊れものらしく扱わなければなりません。思えば、どんな無茶をしても自分も相手も壊れない、と思っていたところは、どれほど傲慢だったことでしょう。(168)

鈴木:前回いただいたお手紙には、上野さんの傷とその痛みが体温が残るままに包まれていた気がして、とてもヒリヒリした気持ちで読みました。「壊れものは壊れものとして扱う」って力強い言葉だろうと思いつつ、でもその壊れを自分で認めることはなんて難しいんだろうと思いました。
私は色々な虚勢を張って生きてきましたが、その中で最大のものは傷つかない/傷ついていないというものだったと気がします。被害者扱いにされたり、弱いものと見做されたりするくらいなら、自分の傷はないものとして見過ごしたくなるという話は最初にウィークネス・フォビアの時にもしました。身体と精神の関係でも、そういう誤魔化しを常に重ねてきたような気がします。痛みを無視することにだけ達者になると、しばし自分自身の強さに酔いしれることができますが、向き合うべき時に向き合わないと結局そのコントロールを失うのかもしれません。(172)

僕もまた「どんな無茶をしても自分は壊れない」と思い、「傷つかない/傷ついていない」と「痛みを無視する」ことで強くなる(=壊れない)し、相手も自分と同じような「強さ」を持てば「壊れない」とすら思っているところがある。それは「傲慢」かもしれない。しかし、自分自身のことはともかく、「傷つかない/傷ついていない」と「痛みを無視する」人たちを「傲慢」という言葉で表現してよいのか、そういう人たちもまた闘っている、そしてそれもまた尊いものではないか、とも思う。一方で、このように僕が思うこともまた、傲慢なことかもしれないが。
 上野さんは、「本書が男の読者に届くとはあまり期待できない」(337-8)と語る。確かに、お二人が書いたことが正確に届いているかどうかはわからない。それでも、男である僕にとっても触発される、価値ある一冊である。

 

*1:細見和之「書簡文化の終焉に際して」『思想』2020年2月号