yamachanのメモ

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カトリーヌ・マラブー『抹消された快楽-クリトリスと思考』

 「哲学において、女の快楽は一度も問われていない」(16)と語るカトリーヌ・マラブーの新著は、副題にもある「クリトリス」を探求し、「女性的なもの」を論じるものだ。「私は何かを証明するつもりはなく、ただ、複数の声が聞こえるようにしたい」(10)と言うように、クリトリスを巡って多様な議論が展開されている。
 しかし、クリトリスを論じるとは何を意味するのか。ここで本書の帯「クリトリスアナーキストである」に注目すべきである。マラブーは「クリトリスの享楽という問いは、主体化という政治的な問いから切り離すことができない」(88)として、次のように述べる。

フェミニスト的な意識改革において重要な争点となっているクリトリスは、いまや服従と責任のあいだの還元不可能な隔たりを示している。
しかしながら、女性たちのあいだでファロス的な力が再構成されることをいかにして回避すればよいのだろうか。クリトリスが示す隔たりが縮小されてしまう事態をいかにして避ければよいのか。(91)

 この問いに対してマラブーは「クリトリス-女性的なものとしてのクリトリス-は権力に対する関係であるが、権力をもった関係ではない。いずれにせよ、こうした形で私のクリトリスは思考する」ことを示し、「クリトリスとはアナーキストなのである」(161)と唱えるのだ。そして次のように締めくくる。

クリトリスアナーキー、女性的なものは、私にとっては分かちがたく結ばれており、抵抗それ自体が権威主義的な方向に流されてしまうことを自覚した抵抗の前線を形成している。支配を敗北させることは、私たちの時代のもっとも重要な争点のひとつである。当然ながら、フェミニズムはこの争点のもっとも生き生きとした形象のひとつであり、まさしくアルケーをもたないがゆえにもっとも危険に曝された先兵なのだ。
しかし、原理を欠くことは記憶をもたないことではない。だからこそ、フェミニズムを女性的なものから切り離さないことがきわめて重要なことだと私には思われる。フェミニズムとはまずもって想起である。つまり、過去と現在における女性に対する想起であり、切除、レイプ、ハラスメント、フェミサイドの想起である。あきらかに、そして多くの点でクリトリスはこれらの記憶を託されており、女性の快楽の自律が示す耐え難さを象徴するとともに体現している。それと同時に、これまで述べてきたように、女性的なものは女性を超越し、女性を脱自然化する。そうすることで、〔権力を〕濫用する者たちの卑劣さ-その大小にかかわらず-の彼方に、支配への無関心という政治空間を映し出すのである。
女性的なものはこうした記憶と未来を結び合わせるのだ。(167-8)

 本書は小著ながらも、「可塑性」「隔たり」「記憶」「未来」といったマラブーの哲学が凝縮されていると同時に、クリトリスを通じて哲学そのものについても論じた好著である。