「一九九〇年代以降のフェミニズム「理論」を新しい地平へと押し広げた批評家」*1で、「セックス、セクシュアリティ、ジェンダー、言語に対する考え方を変えた」*2思想家であるジュディス・バトラーの代表作の一つ、『問題=物質となる身体』*3の翻訳書がついに出版された。バトラーによる「日本語版への序文」も収録されており、読者としては嬉しい限りである。
一方、「読者を混乱させる「悪文」の要素がある」、「何かをこじ開けようとのたうち回るようなその文体」*4と竹村和子さんが指摘していたバトラーの文章を、翻訳が優れていたとしても、読み通すのに苦労する人も少なくないだろう。そのような方には、「レズビアン・ファルス(第二章に登場)も重要だが、第一章と第八章(「問題=物質となる身体」と「批評的にクィア」)が非常に重要。序章も有用である」*5という、サラ・サリーの読書案内が参考になるだろう。
原著は一九九三年に出版されているが、本書で論じられていることは、現代においてこそ呼び起こす必要がある。バトラーは、「女性か男性であるべきという要求は暴力的要求になり得るのであり、これは社会的規範に由来する」(ⅳ)として、「セックス」について次のように述べる。
「セックス」とは、時を通じて強制的に物質化される理想的=理念的構築物なのである。「セックス」は、身体の単純な事実でも、身体の静的条件でもなく、統制的規範が「セックス」を物質化し、この物質化が統制的規範の強制的反復を通じて達成されるような過程である。反覆が必要だということは、物質化が決して完成しないという徴しであり、また、この物質化を強制する規範に身体が完全には従わないという徴しである。(4)
そして、「セックスを「引き受ける=身に帯びる」という過程を経て主体が形成され、「異性愛的命令がある種の性的同一化を可能にし、他の同一化を予め排除(フォアクローズ)」する(6)。一方、「政治的言説の内部へのセックスのカテゴリーの動員は、そうしたカテゴリーが効果的に生みだし予め排除する不安定性そのものに、常に何らかの形で取り憑かれている」(7)。そのため、政治的実践においては、同一化ではなく、非同一化を主張し、「どんな身体が問題=物質なるのか、そして、どんな身体が批判的関心事として今後現れてくるかを再構想すること」が重要となる。
思想に対する今日の政治的要求は、政治的領野における動的で関係的な諸々の位置性を、単純化して統合することなく、それらを繋ぐ相互関係性の地図として示すことである。さらに、決定的に重要なのは、そうした諸々の場を占める方法を見つけることであると同時に、それらの場をデモクラシー化的異議申し立てに従事させ、それらの場を生産する排他的条件が(そうした条件が完全に克服されることは決してないとしても)より複雑な連帯の枠組みの方向へと絶えず作り直されるようにする方法を見つけることだろう。そのとき重要だと思われるのは、一貫したアイデンティティを政治的に強調することは他の従属集団との政治的連携への横断が起きる基盤となり得るのか、と問うことである。-とりわけ、そうした連携の概念が、そこで問題となる主体位置そのものがある種の「横断」であり、連帯の困難さの生きられた場である、ということを理解していない場合は。出発店として一貫したアイデンティティを強調することは、「主体」とは何かが既に理解され、既に固定されており、既成の主体が世界に参入し自らの場所を再交渉する、と想定している。しかし、もしそうした主体そのものが自分自身の複雑さ、自分自身の構成要素である同一化の横断を代価として一貫性を生み出すとすれば、そのときその主体は、自分自身が機能する領野をデモクラシー化する可能性を持った様々な種類の異議申し立ての繋がりを予め排除することになってしまうのである。(154)
バトラー自身の言葉をさらに借りれば、「ある同一化のために別の同一化を犠牲にすることを要求する連帯の政治は、それによって不可避的に暴力的な帰結を、すなわち、排除の暴力を通じて作り出されたアイデンティティをばらばらに引き裂くような不和を生み出してしまうのである」(158)。
さらにバトラーは問う。「私たちが推進する権力=力と、私たちが対抗する権力との差異を、いかにして知ればよいのだろうか」(330)と。そして、次のように権力の問題を説く。
「人は、権力に対抗しようとするときでさえ、言わば権力の中にいるのであり、権力を作り直すときも、権力によって形成されているのであって、この同時性こそ輪足たちの不完全性という条件であると同時に、私たちの政治的無知の尺度であり、行動その者の条件でもある…。行動の計算不可能な諸効果は、私たちが予め計画する諸効果同じように、その転覆的約束の一部なのである。(330-1)
現在の政治状況を批判する際、包摂・連帯・反権力を掲げることは、理論的にも実践的にもたやすい。しかし、バトラーの著作を読めば、そのような単純さは一掃される。本書を読み解くことと同様に、政治の領域においても、複雑なものに対する「粘り強さ」が求められるのである。
*2:サラ・サリー『ジュディス・バトラー』1
*3:『問題=物質となる身体』という日本語タイトルは、解説で佐藤嘉幸氏が指摘しているように、「亡き・竹村和子氏によるものである」(389)。その理由について、竹村和子さんは次のように述べていた。「“matter”は「問題化する」という同志としての意味と(ここでは同志として使われている)、「物質」という名詞としての意味があり、バトラーはこの二つをかけていると考えられるからだ。主体構築にあたって「身体」が「問題化」され、そして「所与の物質」とみなされていく権力操作が、この書では論じられている」(竹村和子『境界を撹乱するー性・生・暴力』188、212)
*5:サラ・サリー『ジュディス・バトラー』262-3