yamachanのメモ

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アレクサンドル・コイレ「イェーナのヘーゲル」

コイレは、「この時期(イェーナ期)の知的作業はとくに熱烈に肥沃」であり、「決定的な形成期であり、この期間にヘーゲルは自らの武器を鍛えあげる」(103)と述べる*1

まず、本論文で注目すべき概念の一つに「不安定(l'inquiétude)」がある。「この不安定こそはヘーゲルにとって実在的なものの本質そのものである」(114-5)。さらに、原註では、次のように指摘している。

存在はそれ自体のなかで安息するどころか、自己から逃げ出し、自己を否認し、自己自身とは別のものになる。したがって存在は自己否定において、自己否定によって、自己を実現する。別のところで言ったことだが、この場を借りてもう一度言っておくと、ヘーゲルのこの直観はわれわれには本質的に人間の直観であるように思えるし、同様にまた、本質的に時間の直観であるようにも思える。(154)

また別の個所では「不安定が存在の根底である」(120)として、「無限とはヘーゲルにとってもはや「不動な永遠の像」ではなく動的で不安定なものであり」、「これこそは重要なヘーゲルの立場である」(120)とも述べている。

なお、この「inquiétude」については、ジャン=リュック・ナンシーヘーゲル 否定的なものの不安』でも、キーワードの一つになっている*2

この世界はそれ自身その固有の運動の内で帰結する世界であり、世界のものでるこの真理についての思惟自身が今度は、一つの運動、一つの不安なのである-実際には、思惟が自己の、自己に関しての、自己に対しての[=対自的な]不安である限りにおいて、そして、この自己が無限に他者の内で他者として自らを啓示するが故に、思惟と不安とは同じものだのだが。ヘーゲルの思惟はこうして自分自身を変容させる哲学となるのであり、ヘーゲル以降、哲学の行為と言説は明らかにそれ自身の外に絶えず身を置き続けてきた。そして/あるいは、それ自身の内でその無底の根底へと帰還し続け、自らを再び賭け、自らを再創造し、同様に、自らを暴き立て、自らを苛立たせ続けてきたのである。(『ヘーゲル 否定的なものの不安』18-9)

コイレは「不安定」に注目したうえで、「ヘーゲルがイェーナにて取り組む課題」(115)として、このように述べる。

悟性の凝固した観念のすべてを破壊して、概念を作り直さなければならない。動的であると同時に完結した体系を作らなければならない。なぜなら<絶対者>は動的で完結しており、体系はこの<絶対者>を表象し完結するのでなければならないのだから。(115)

コイレによれば、ヘーゲルの哲学は「時間の哲学」であり、「人間の哲学」(116)でもあった*3。「ヘーゲル的時間とはなによりもまず人間的な時間であり、人間の時間」(130)として次のように指摘している。

現在から出発して自らを否認し、将来において自己を実現しようと努め、将来へ向けていき、その将来に自らの「真理」を見つけ、あるいは少なくとも、それを探し求める。この存在は、「いま」において将来がこのように連続的に変容するこの運動のなかにのみ実存し、そして、もはや将来が存在しない日、つまりもはや来たるべきものがなにもない日、すべてがすでに到来した日、すべてがすでに「完成された」日、存在することを止める。ヘーゲル的時間は、人間的であるというまさにこの理由で、同時に弁証法的である。ヘーゲル的時間は同様に、一方にして他方であるというまさにこの理由で、本質的に歴史的な時間である。(131)

この引用で出てくる「将来」もまた、本論文のキーワードの一つである。「この将来[avenir]こそ、まず最初に「来たるべきもの[à-venir]」としてわれわれに現前するもので」あり、「時間がわれわれのもとへとやって来るのは「過去から」ではなく将来からである」(130)とコイレは述べる。「将来をこのように強調し、過去に対する優位を将来に与えること、われわれの見解では、これこそがヘーゲル最大の独自性を構成している」(130)のである。

また、長大なヘーゲルのテクストを引用して注目しているのが、「差異的な関係(rapport différent)」(121)または「差異化する関係[rapport différenciant]」(156)である。

「異なった」諸行為とは、自らが対象とする諸項を「異な」らせ[faire《dirrére》]、「異なるもの」にし[rendre《dirrérents》]、まさにそれによって「他なるもの」にする行為、つまり差異化する[dirrérence]行為、区別する行為である。そしてまさにこの行為こそ、あらゆる「差異[dirrérence]」の根底に見出されるものである。ヘーゲルは哲学の千年以上の伝統に反して実詞ではなく動詞で思考している、と言ってもいいだろう。(127)

そして、「差異化作用[différenciation]のなかで、差異化作用によって、時間の弁証法的運動が構成され」(134)、「時間の弁証法とは人間の弁証法である」(142)として次のように述べる。

人間が自らの「いま」に-あるいは自分自身に-否を言うからこそ、人間は将来をもつ。人間が自らを否定するからこそ、人間は過去をもつ。人間が時間[temps]である-だけでなく、ほんの一時のもの[temporel]である-からこそ、人間は現在をもつ。過去に勝利した現在を。(142)

コイレによると、「ヘーゲルの概念的理解においては、瞬間の弁証法的本性によって<時間>と<永遠>との接触と相互浸透が確証される」が、「それこそが結局はヘーゲルの努力の挫折を説明するものでもある」(143)。「なぜなら、もし時間が弁証法的であるならば、またもし時間が将来を起点にして構成されるとすれば、時間は-それについてヘーゲルがなにを言っていようと-永遠に完結しないから」(143)ということだ。そして、次のように締め括る。

時間の弁証法的性格だけが歴史の哲学を可能にする。しかし同時に、弁証法の時間的性格がそれを不可能にする。なぜなら歴史の哲学は…時間の停止であるからだ。ひとは将来を予知することはできないし、ヘーゲル弁証法がわれわれにそれを許さない。なぜならその弁証法は、否定作用にそなわる創造的な機能の表現であると同時にその自由を表現しているからだ。総合は予知不可能である。…歴史の哲学は-まさにそれゆえヘーゲル哲学は、「体系」は-歴史が終わってはじめて可能であろう。もはや将来が存在しなくなったとき、時間が停止したときにのみ。(144)

カトリーヌ・マラブーが指摘するように、「哲学はまさに歴史の停止を前提としている」のであり、「歴史を思考することは歴史を停止することを意味する」(カトリーヌ・マラブー『真ん中の部屋』37)のである。

 

*1:滝口清榮『ヘーゲル哲学入門』の次の記述も参照。「先立つ、あるいは同時代のさまざまな思想に向き合いながら「批評」、「批判」を通して、みずからの立場を固めていく、そういうヘーゲルの姿がここにあります。そして複数の体系をめぐる構想が書きとめられます。これらはヘーゲル哲学の骨組みが生まれてくる現場と言ってよいでしょう」(41)

*2:訳者の西山雄二氏は次のように述べる。「ヘーゲル哲学が描出するのは絶対者の臨在という<存在>の現前に立脚した世界の稠密な厚みではなく、絶対者の現前に対して精神が自ら外に向かって露呈させ、存在論的な空洞を穿つ不安な移行状態である。生成における「支えのない」は、存在論的「不気味なもの(étrangeté inquiétante)」としてヘーゲル哲学を試練にかけるのである」『ヘーゲル 否定的なものの不安』(196)

*3:「われわれは人間的の語にこだわっている。なぜなら、もう一度言うが、『精神現象学』とは人間学であるからだ」(158)、「諸次元は諸方向である。純粋な多数性においては、それらを区別する根拠はない。それらはもっぱらわれわれに対してのみ、すなわち空間のなかに位置づけられた人間-時間を生きている人間ーに対してのみ方向(サンス)をもつ。」(158)とも言っている。