「私的所有は部分的に租税システムによって定義される法的な慣習(convention)である」(6)、「租税構造に先立って所有権といったものは存在しない」(82)、「あなたが実際に稼いだものが課税前所得であり、その後に政府が登場してそのいくらかをあなたから奪い取ったと考えることは誤りだ」(69)等々、私たちの日常感覚からすると反論したくなる言葉が並ぶ。マーフィーとネーゲルは、この私たちの税に対する感覚に対して、「日常生活に潜む自由至上主義(“everyday libertarianism”)」(15)という概念を提示する。それ次のような日常的感覚である。
減税は「自分たちの金」を取り戻すことであり、実際すべての課税は自分たちに帰属しているものを取り上げることだ…。つまり、自分たちが根本的に権原があるのは、自分たちの課税前所得なのだ(38)
しかし、マーフィーとネーゲルは租税に対するこの感覚を批判する。
私たちは所有を租税システムによって攪乱されたり侵食されたりするものではなく、むしろ租税システムによって創出されたものと考えなくてはならない。所有権は課税前にではなく、課税後に人々が支配する資格を与えられた資源にたいしてもつ権利である。(199)
そう、「人々が課税前所得にたいして何らかの種類の権原をもつべきだと主張することは論理的に不可能」(35)なのだ。
また、「租税はある目標のために課せられており、課税における正義の適切な基準は、この目標を考慮に入れるものでなければならない」(27)とも指摘する。つまり、「租税の正義は社会正義の全体的な理論と政府の正当な目標に関する理論の一部でなければならない」(42)ということだ。
私たちが確信しているのは、租税政策は、負担の配分という狭い視野によってではなく、正しいレヴェルの公共財への資金提供と社会正義の確保という目標を結合することで方向性を示されるべきであり、社会正義は資本主義経済の創造的な力を掘り崩すことなく、資本主義経済の下で貧しい暮らしをしている人々とその家族の生活ならびに機会の保護を目指すことを求めるということである。(210)
このように、資本主義を打破するのではなく、社会正義という目標から租税を見直し、現実の問題に立ち向かうことが、私たちに求められていることではないだろうか。そして、「租税の政治的問題とは、私たちの本性の中にある、より天使に近いもの、つまり公正や不偏性によって動機づけられるものに訴えることが、政治家にとってリスクに満ちている」(80)状況だからこそ、本書で議論されているような原理的な考察と、マーフィーとネーゲルのような知的スタンスが求められるのではないか。私たち市民もまた、「公正や不偏性によって動機づけられるものに訴えること」が、政治家にとってリスクとならないよう、「日常生活に潜む自由至上主義」と向き合っていかなければならない。