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齋藤純一『不平等を考える-政治理論入門』

 拡大する格差、社会統合の綻び、政治の不安定化といった諸問題に対して、本書は「市民として」という観点からアプローチしている。「市民として」とは、「社会の制度を他者と共有し、その制度のあり方を決めることができる立場にある者として」(13)ということを意味している。そして、「制度の役割は、市民の間に対等な関係を構築し、それを維持することにある」(21)と著者は説明する。
 このような視座から不平等をさまざまな観点から論じている。まず、そもそも「なぜ平等か」という問題がある。これに対して著者は、能力や才能が事実として等しくは無いことや人の多様性認めつつ、「「値しない」有利-不利が社会の制度や慣行のもとで生じ、再生産されつづけている事態」(17)が不当であることを指摘する。
 「何の平等か」という観点からは、「運の平等主義」と「関係論的な平等主義」を取り上げている。運の平等主義は問題を個人的な要因に帰するが、関係論的な平等主義は不平等を生み出す制度の再編や規範・慣行の変更を求めるものであり、前者の難点を踏まえたアプローチとなっている。
 また、市民間の連帯については、「エスノ・ナショナリズム」や「リベラル・ナショナリズム」、「憲法パトリオティズム」を論じている。これらは、「誰の平等か」という問いに関係する。民族的少数者、宗教的少数者、性的少数者などを排除したり、劣位に置いたりせず、「市民が相互の生活条件を支えあう」(78)という市民の連帯が求められる。
 そして、社会保障について著者は次のように説明する。

社会保障にとって重要なのは、資源の再配分を行うことそれ自体ではなく、分配された資源を基盤として(資源を用いて/資源によって)、市民がどのような立場を占めることができるか、そしてその立場が彼らにどのような行為を可能にし、どのような行為を制約するかにある。市民の間に平等な関係が成立しているかどうかは、この視点から評価されるべきである。(91)

つまり、「何の平等か」「誰の平等か」を踏まえて、「平等」という観点から社会を見る実証的な視座が重要となる。
 さらに、市民を政治的に平等であるとして尊重するデモクラシーのもとでの市民の政治的実践として、「公共的な推論(public reasoning)としての熟議デモクラシー」(169)が強調されている。著者は、「(民主的な意思形成-決定に対する)信頼が生まれるのは、公正な手続きと決定内容の正しさが結びつくときであり」、「そうした結びつきが得られるのは、公共の議論を通じて情報や意見の交換が行われ、理由の検討が行われるときである」(178)と指摘している。そして、熟議デモクラシーに関する理論だけではなく、ミニ・パブリックスのような実践についても論じている。これらの議論は、「どうすれば平等か」という問いに関わる。
 本書からわかるように、平等に関する問題は多面的である。その多面性に私たちは直面しており、多面的であるがゆえに解決は困難である。しかし、不可能ではない。本書を片手に解決策を見つけていくこと、これが私たち「市民として」の課題である。