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布施哲『世界の夜-非時間性をめぐる哲学的断章』

 シュンペーターラクラウ、そしてシュトラウス-この三者を論じることで見えてくるものは何か。それは、本書の帯にも書かれている「非時間性=「革命」の水脈」である。
 著者は、シュンペーターの「イノベーション」「アントレプレナー」、ラクラウの「ラディカル・デモクラシー」、シュトラウスの「創始者」などの議論を通じて、時間軸が中断し、宙吊りされる「瞬間」を描き出す。そして、この瞬間こそが「「主体」を自己破壊的な行動へと駆り立て」、「これまで潜在的であった不活性分子が突如として反転、活性化され、荒々しく顕在化する」(20)と指摘する。つまり、「時間が停止したその瞬間に、ひとは自動機械であることをやめ、自らの足で歩きだすことができる」のだ。
 一見、閉塞感を打破してくれそうなこれらの議論は、人びとにとって魅力的なものに映るかもしれない。しかし、本書で論じられている「瞬間」は、「日々粛々と進行する経済の暦に則って予測」(109)が不可能となり、「不安定さ」(163)が顕在化するものである。つまり、「自らを時間化する」という「誰にとっても疑問の余地なき生き方」(17)が停止するのである。このような状況を望むのか。私たちが必要としているのは、定常で安定な社会ではないのか。
 ところが、である。著者が描く次のような状況に対して、苛立っている自分もいる。

政治はリスク管理のための“ガバナンス”-つまるところ一揆の防止である-にすり替えられ、経済主体は、あまねく「人的資本たる労働者」に置き換えられる。それと並行して、荒々しい新結合の代わりに、無毒化され、管理の行き届いた“技術革新”が、行政主導で効率よく進められてゆく。“持続可能性”というもうひとつのバズワードは統治者(と思い込んでいる)側の願望を雄弁に語っている。時間を寸断させるアントレプレナーとは正反対に、国家が躍起になるのは、時間の流れを持続させ、あわよくば永続させることである。官僚たちは相変わらずカレンダーとにらめっこをしながら工程表を作るのを何よりも好む。彼らは無限に続く自然数を崇拝している。つまり、“正真正銘の主権者”の名のもとに、何枚めくっても終わらない暦を夢想するのである。(140)

 本書に収録されている書下ろし以外の論考は、2010年代前半から中盤にかけてもののであるが、2021年の今、一冊の書物として出版されたことに意義がある。「月日を重ねるという常識」(17)への安住と苛立ち、これらが共存している現在、「未来への如何なる種類の空約束をも信じることができなくなって久しいわれわれが、暦の停止する「現在時」を横領せんとする醜悪な≪王≫に心奪われることがないよう願いつつ-」(38)という著者の言葉は思い。
 本書は、タイトルの「世界の夜」という言葉が出てくる、ハイデガー「詩人は何のために」の引用で締め括られる。この「世界の夜」を出発点として「新たな内容の創造が可能となる」*1よう、ジジェクが引用しているヘーゲルの言葉をメモしておこう。

人間はこの夜であり、すべてをこの夜の単純態のなかに包み込んでいる空虚な無であり、無限に多くの表象と心像とに満ちた豊かさなのである。とはいえ、これら表象や心像のいかなるものも、人間(の心)にただちに浮かんでくることもなければ、あるいは、生々しいものとして存在することもない。ここに実在するものは夜であり、自然の内奥、純粋な<自己>である。幻影に充ちた表象のうちには、あたり一面の夜が存在しており、こなたに血まみれの頭が疾駆するかと思えば、かしこには別の白い姿が不意に現れてはまた消える。闇に浮かぶ人の姿に目を凝らしても、見えるのは闇ばかり。人の姿は深く闇にまぎれて、闇そのものが恐るべきものとなる。げに、世の闇は深く垂れ込めるものなれば。
人が人をその目において見る時、人が知覚するのはこの夜である。すなわち、恐ろしいものとなる夜である。この時われわれに現れるのは、世界の夜である。

 注目された選挙においても政権交代は起こらないどころか、「変わらない」というイメージを人びとに植え付けることになり、現実として日常は粛々と進行している。このような状況においてこそ、民主主義を、政治そのものを、そして「人間の条件」を問い直していく必要がある。本書はそのために必読の一冊と言えよう。

世界の夜

世界の夜

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*1:スラヴォイ・ジジェク『もっとも崇高なヒステリー者』343