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yamachanのメモ

日々の雑感や文献のメモ等

夫婦別姓の婚姻届が出されたら

夫婦同姓の合憲判決があった今こそ読み返したい本の一冊が、松村亨『夫婦別姓の婚姻届が出されたら』だ。

夫婦別姓の婚姻届が出されたら (自治体職員のための政策法務入門 2 市民課の巻)

夫婦別姓の婚姻届が出されたら (自治体職員のための政策法務入門 2 市民課の巻)

役所と戦うためには、役所の論理を知ることが第一歩であると考える僕にとって、「自治体職員のための政策法務入門」はとても参考になるし、読み物としても面白い。

夫婦別姓を希望する市民に対して、市民課の職員は次のように説明する。

民法)七五〇条に『夫婦は婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する』と規定されているんですよ。この法律の規定は、『夫婦は格別の異なる氏を称したり、共同の氏であっても夫又は妻のいずれの氏でもない新設の氏を名乗ることはできない』ということや『当事者が共同の氏を定めないときは婚姻することができない』ということを意味しています。この規定がある以上、市役所としては『婚姻後の夫婦の氏』を定めていただかない限り婚姻届を受理することができないのですよ。(208) 

ふむふむ…「お役所仕事」として、職員の上司が言うように「いい対応」(209)ですな。 

一方、夫婦別姓を希望する市民は、弁護士に夫婦別姓について相談。弁護士は「夫婦別姓の婚姻届を提出するのはかなり難しい」として、民法七三九条と七五〇条の規定を説明したうえで(210)、「夫婦別姓を求めるための法的根拠」(211)について、次のように説明している。

 法律的には、まず憲法第一三条で保障されている『幸福追求権』がありますね。個人が人格の尊厳を維持して生活するための権利と考えられています。これによって憲法の個々の条文で保障されている人権以外の人権が保障されています。この規定を根拠として、自らの氏を自由に選択することが人格の尊厳を維持するために認められるべきであると考えることも不可能ではないと思います。また、第一四条では『法の下の平等』を規定しています。お聞きになったことがあるかもしれませんが、一人ひとりが法的権利・義務の関係において等しく扱われなければならないという憲法上の原則です。さらに、第二四条では『家庭生活における個人の尊厳と両性の本質的平等』を規定しています。こうした、憲法の基本的な原則から考えると、いずれか一方の氏を強制し『夫婦同氏』を求めることは許されない、と考えることも可能だと思いますよ。(211)  

さらに弁護士は「姓」と「氏」との差異も説明していて、それはそれで興味深い内容だけど割愛。

場面が変わり、市民課の職員も夫婦別姓が認められないことを疑問に思い、上司に相談している。上司は1996年の国の法制審議会の答申を紹介したり、法律による行政の原理を職員に説明している。

それからひと月経ったある日…市民課に裁判所から不服申立てに係る文書が届く。この文書を受けて、夫婦別姓に関する裁判所の判断の話が始まる。その話(=夫婦別姓は認められなかった話)を聞いた市民課職員が、今回も同じ結論になるのでは、と上司に質問したところ、上司は以下のように答える。

そうとも限らない。そのときの裁判所の判断でも『国民感情または国民感情及び社会的及び社会的慣習』って言ってるけど、国民感情なんかは時代とともに移り変わるものだから、今回は裁判所で別の判断がなされる可能性はあるよ。(218) 

本書の出版は平成20年…7年前か。ところで、夫婦別姓のエピソードの後には、同性結婚のエピソードが続くので、関心がある人はぜひ本書を手にしてほしい。

以上のような役所の論理を知ることは重要である一方、この夫婦別姓の問題はより原理的・根源的に考察していく必要がある。そのために参考になるのが、野崎綾子『正義・家族・法の構造転換ーリベラル・フェミニズムの再定位』である。

正義・家族・法の構造変換―リベラル・フェミニズムの再定位

正義・家族・法の構造変換―リベラル・フェミニズムの再定位

本書の69頁以降で、憲法第二四条を取り上げて、「家族」の問題を取り上げて、次のように語る。

正義論の問題としては、家族の自律性を強調するのではなく、個人権をベースとする、家族の個人化の方向が妥当であり、家族の多元性を尊重することが重要であると考える。自由な個人の連帯としての家族が保護されるべきと考える。家族の法的規律については、多元性が要請される。この立場を一言でまとめると、「統一体としての家族から連合体としての家族へ」ということになろう。

このような正義論上の結論を憲法二四条の解釈論上にも反映すると、同条が、法律婚主義を基調とした家族制度の秩序を擁護することを看過しているとの批判がなされうる。しかしながら、家族の多元性を強調するとしても、法律上の家族と事実上の家族とを、いかなる場合にも同じように取り扱わねばならないとの結論に直結するわけではない。憲法二四条二項は、かかる法律上の家族と事実上の家族を区別する根拠を与えるものとの解釈をとることも可能である。ただ、かかる区別の根拠を与えると解する以上、家族について定める法律については、立法裁量を相当限定して、法律上の家族の多元性を確保せねば、特定の形態の家族のみを法的に保護することにつながるおそれがある。このような観点からは、法律上の家族の多元性が十分確保されていない現状では、法律上の家族と事実上の家族とで、取り扱いの差別を認めるべきでないといえるだろう。(75-76)

このように、「正義」という価値から家族の問題を考えることは重要であり、僕も周囲の人に話すことがあるけど、「屁理屈言うな」の一言である。そう、こういう原理的な話は、ある人々にとっては「屁理屈」なのだ。それは、僕の話し方が悪いのかもしれない。だから、知識だけではなく、人に理解・納得してもらえるような語り方も学んでいく必要がある。

最後に、本書の井上達夫氏の解説を是非読んでほしい。ここで語られている、32歳で亡くなった野崎綾子氏の人生を通じて、「果敢に前線で闘う」(255)生き方を学ぶことができる。

誤解のないように注記すれば、哲学者は暇ではない。考えることに忙しすぎるから「放心」するのである。野崎綾子も、実務処理に忙殺される生活から、思索と執筆に忙殺される生活への転換を欲したのだろう。(242) 

この気持ちはよくわかる。ただ、僕は、実務を通じて思索するという実験を、しばらく続けていきたい。