yamachanのメモ

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西田亮介『コロナ危機の社会学-感染したのはウィルスか、不安か』

 世界中をゆるがせている新型コロナウィルス感染症について、2020年前半における感染拡大の経緯と対策を記述し、その状況に対して「走りながら考え」(199)、社会学的分析を行った本書は、コロナ危機に対する見通しを良くし、我々が立ち止まって思考するきっかけを与えてくれる好著だ。
 新型コロナが拡大していった経緯を詳細に記憶していくことは困難であり、また、政府の対応・対策はリアルタイムでも全てを把握することは難しいなか、それらについて記述・整理されているという点でも本書を読む価値はある。そして、この記録により記憶を呼び起こすことが重要であり、このことは本書のキーワードの一つである「忘却と反復」とも関連する。「忘却と反復」について、西田さんの次のような指摘は鋭い。

過去の新型インフルエンザの経験と、それを踏まえたこれまので備えについての基本的事実はやはり新型コロナ感染拡大当時、社会とメディアはすっかり失念、忘却していたといっても過言ではないはずだ。しかも忘れてしまったことにすら気づかないままに、真顔で似たような反応を反復しているようにさえ思えてくる。
その結果、追加の社会、政治、経済的コストが発生し、防げたはずの問題も繰り返しているのはないか。(154)

このようにメディアと社会の「忘却と反復」を批判する一方で、過去の知見や反省を踏まえたと思われる政治判断について、それらの背景の詳細を総理が国民に対して説明しなかった結果、国民が過去の取組の経緯や効果を思い出すことがなかったとして、政府の問題も指摘している。
 そして、本書が取り上げている政府の問題で重要なものが「耳を傾けすぎる政府」だ。

「耳を傾けすぎる政府」とは政治が効果や合理性よりも、可視化された「わかりやすい民意」をなにより尊重しようとする政治の在り方のことだ。(175)

政治と社会は本来対話を重ねることが求められ、両者が合意に至らないときには言葉を尽くした説明と、ときには説得や決断が求められる。古典的な政治家における責任倫理と心情倫理のせめぎ合いでもある。
しかし、ここでいう「耳を傾けすぎる政府」はそれらを省略する。耳を傾けすぎる政府はとにかく「わかりやすい民意」に「反応」しようとする。説明と説得には多くの政治的コスト、それから時間を要するからだ。「反応」とは局所最適化のことでもある。(176)

このような戦略により、「国民の視線に立つとき、日本の政府対応の全体像と方針の予見可能性は全く見通し難いもの」(189)になっており、これは本書出版後の日本政府の対応にも当てはまる。
 この「耳を傾けすぎる政府」とその背景にある「イメージの政治」という構造的問題と、インフォデミック等の新型コロナ感染拡大により生じた新しい問題に注目することで、不安の感染のメカニズムを明らかにした本書は一読に値する。ここから「どうあるべきか」という「規範」について考えるのは、我々読者に与えられた課題であろう。