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金井利之『コロナ対策禍の国と自治体-災害行政の迷走と閉塞』

 新型コロナウイルス感染症対策において地方自治体に注目が集まっている中、コロナ禍での自治体の動向や今後のあり方を問う、重要な一冊が出版された。
 本書の視点は、タイトルが示しているように、「コロナ対策禍」である。「コロナ対策禍」とは、政策課題としての「コロナ禍」に対策を打つ「コロナ禍対策」が、さらなる問題を引き起こす形態のことである。そして、この分析枠組みは、「行政の作為による失敗の研究」であり、「行政一般の問題を検討することにもつながる」(25)ものである。
 そして、著者が焦点を当てているのは、「権力集中」という問題である。災害対策には災害行政組織が必要で、その組織をもとに災害行政対応をとるが、そこには権力集中への指向性が埋め込まれている。この権力集中の指向性を極限まで進めることの危険性について、著者は次のように述べる。

全権授権をされた災害行政組織は、じつは法的には何もできない無能な存在となる。何でもできる、とは、要するに、何をやってよいか、何をやるべきか、を導く要件・条件が存在しないという状態である。何でもできるということは、何もしないこともできる。それゆえ、全権授権をされた法的規定について、「できることは何もなかった」と弁明することさえも可能なのである。(59)

「具体的に効果のある実践的な災害行政対応をするためには、「全知全能」の「完璧」に権力集中した司令塔を期待することはできない」(67)のである。
 しかし、コロナ対策においては、「自治体は災害行政における国の指向性を忖度し、強力な国政政権への権力集中を自ら求め、国が権力を発動しやすいように、自治からの逃走をした」(87)のである。ここには、権力集中の災害行政対応への期待が見られるが、その結果として政権は迷走し、「無規律型社会」(102)へ陥ることとなった。排除と沈静を繰り返すものの給付能力の限界がつきまとい、そこから「特定の人間の特定の行動分野に限定して抑制する折衷型」(129)を執るが解決には至らない。その結果、「感染症流行・終熄の「自然の摂理」に委ねた集団免疫戦略が登場」(133)するが、十分な効果は得られず、各アクター間の非難応酬が見られるようになる。このような状況を踏まえると、「結局、災害行政対応とは、いまある組織で自律的にできる実務を進めるしかない」(161)のだ。
 このような困難が生じる要因として、「感染症対策における政策構造」(178)があると著者は指摘する。特措法は、①国民の生命・健康の保護、②国民生活・国民経済に及ぼす影響の最小化という二つの目的、①蔓延防止措置、②医療等提供体制確保措置、③国民生活・国民経済の安定措置の三つの政策手段を持つが、「あちらを立てればこちらが立たずという、ディレンマ・トリレンマの閉塞」(193)構造がある。この困難に対して、為政者は何もしないわけにはいかないものの、現実的な対策が無いため仮想的な対応が模索されるが、事実の上での実効性を確保することはできず、閉塞状況を打破することはできない。さらには、感染状況を「公表することも、公表しないことも、差別という民衆行動を生じさせ得る」(278)という問題もある。
 以上のような困難な状況に対して、「真に望ましい「新しい日常」を行政が創出していくために」、著者は「包摂、無力、社会、実務の指向性の回復」(305)を提言する。そして、これら四つの指向性を回復するためにこそ、本書で論じられている権力集中への指向性に対して、我々は敏感である必要がある。コロナ対策禍の問題を通じて、災害行政を含め、自治について再考を促す一冊である。