yamachanのメモ

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寺田俊郎『どうすれば戦争はなくなるのか』

 寺田俊郎『どうすれば戦争はなくなるのか』は、カント『永遠平和のために』の読解を通じて、カント哲学とその現代的意味を問うものである。著者は、『永遠平和のために』を読むことで、カントの実践哲学と歴史哲学、さらにはカント哲学全体のエッセンスに触れることになると主張している(15)。
 このことを読者にわかりやすく示すために、『人倫の形而上学の基礎づけ』や『人倫の形而上学』、『実用的見地から見た人間学』等に言及しつつ『永遠平和のために』を読み解いており、カント素人の読者にとって参考になる。例えば、第三条項「常備軍は時とともに撤廃されなければならない」理由の一つ、「人を殺したり人に殺されたりするために雇われることは、人間がたんなる機会や道具として他のもの(国家)の手で使用されることを含んでいると思われるが、こうした使用は、われわれ自身の人格の内なる人間性の権利とおよそ一致しない」(30)と述べられている箇所について、『人倫の形而上学』と『人倫の形而上学の基礎づけ』から次の箇所を引用している。

自由(…)こそは、それが普遍的法則に従ってあらゆる他の人の自由と共存しうる限りにおいて、この唯一で根源的な、あらゆる人間に人間であるがゆえに帰属する、権利である。(31)

あなたの人格の内にも他のすべての人の人格の内にもある人間性を、いつも同時に目的として用い、けっしてたんに手段としてのみ用いない、というようなふうに行為せよ。(32)

『永遠の平和のために』が「カント哲学の「見本」」で、「哲学的な思考の表現」(14)である以上、このように他の理論的・実践的著作との関連性について考えることは重要であろう。
 また、本書で興味深い点の一つは、①世界市民的な法・権利の主体、②世界市民的な思考の主体、③世界市民的な哲学の主体、という3つの世界市民概念の関係を論じていることだ。①を軸とした場合、「<世界市民的な法・権利の主体>であることを保証されることが、<世界市民的な思考の主体>や<世界市民的な意味での哲学の主体>の現実性の条件になっている」(105)こととなる。②を軸とした場合、「<世界市民的な思考の主体>であることは、<世界市民的な法・権利の主体>や<世界市民的な意味での哲学の主体>の可能性の条件である」(106)と言える。このような整理は、カントが「世界市民」という語で何をどのような文脈で語っているのかを理解するヒントになるだろう。
 著者はピースフル・トゥモロウズや日本国憲法を取り上げ、『永遠平和のために』の、そしてカント哲学の現代的意味を問うている。ピースフル・トゥモロウズのように「自らの人間性の探求と陶冶を遂行するとともに、他の人々にもその機会を与え続ける」(178)こと、そして日本国憲法のように「道徳や法の原理に即して思考しつつも、現実の世界のあり方への眼差しを失わないこと」(193)等、現代を生きる我々がカントから学び、実践しなければいけないことを示してくれる一冊。