yamachanのメモ

日々の雑感や文献のメモ等

鎌田康男・齋藤智志・高橋陽一郎・臼木悦生[訳著]『ショーペンハウアー哲学の再構築』

『充足根拠律の四方向に分岐した根について』(第一版)訳解

・意識の法則

<われわれの意識>は感性、悟性または理性として現れる。この意識は、<主観>と<客観>とに分かれており、それ以外の要素は含まれない。<主観にとっての客観>であるということと、<われわれの表象>でるということとは同一である。<われわれの表象>と呼ばれるものはすべて<主観にとっての客観>のことであり、<主観にとっての客観>と言われるものはすべて<われわれの表象>のことである。意識から独立しており、それ自体で存在しているもの、他のものと関係なしにそれだけで存在するもの[実体ないし物自体]などは、われわれにとっての客観とはなりえない。われわれの表象と呼ばれるものはすべて、一定のアプリオリ結合法則のうちに取り込まれている。(23-4)

 

・全体表象

悟性は、時間と空間という異質な感性の形式を結合し協働させることで、経験、すなわち唯一の全体表象を作り出す。…全体表象には無数の表象…が共存することになる。そこでは時間が絶えず流れるにもかかわらず実体が持続し、空間が不動であるにもかかわらず実体の状態が変化する。という具合で、要するに、全体表象こそがわれわれにとっての客観的・実在的世界の全体なのである。(30)

 

・表象が直接に現在すること

主観は直接にはただ内官だけを通して認識する。…それゆえ表象が主観の意識の中に直接現在するという点では、主観は内官の形式であるじかんだけに従っている。したがって、主観に一度だけ現在できるのはただ一つの明瞭な表象だけである。…そして、主観はこのただ一つの表象のところに留まろうとはしないし、そうすることは経験世界の法則にも反する。時間だけでは共存はない。こうしてある一つの表象が消え、他の表象がそれにとって代わるということが絶えずくり返される。…これらの表象は主観の意識に直接現在するという点で、個々ばらばらなものであり、絶えず過ぎ去っていく。それにもかかわらず、先に述べた悟性の働きによって、主観には経験の全体という表象が残っている。(31)

 

・ファンタスマと想像力

かつて何らかの表象が直接の客観の仲介で主観に直接現在したとしよう。主観は後にその表象を直接の客観の仲介によらず、意のままに、時には表象の順序や連関をも入れ換えて表現できる。私は、そのように再現されたものをファンタスマと呼び、再現する能力を想像力あるいは構想力と呼ぶ。(36)

 

・標準直観

標準直観とは、あらゆる経験の基準となり、それゆえ<概念にもある包括性>と<個々の表象が例がなく有する何らかの規定性>とを合わせ持った図形と数のことである。じっさい標準直観は、現実の表象として余すところなく規定されており、そうした意味では、規定されていないままであるがゆえの普遍性を持つ余地はまったくないが、それにもかかわらずやはり普遍的なのである。なぜなら、標準直観はそれぞれあらゆる個々の現象の<原型>だからである。すなわち標準直観は、その各々が対応する実在的客観にも、プラトンがイデーについて言っていることが当てはまるであろう。二つの同じイデーは決して存在しえない、同じなら一つのものに他ならないだろうから、というのがそれである。(85-6)

 

プラトン的イデー

プラトン的イデーはおそらく、次のように記述してよかろう。イデーは標準直観として働くが、数学的標準直観とは異なり、形式的なものだけに有効であるにはとどまらず、十全な表象の実質(Materie)にも有効であり、それゆえイデーは、<表象である以上あますところなく規定されているが、しかし同時に、概念と同様、多くものを総括し支える十全な表象>なのである。(87)

 

・意志の主体

表象能力の対象の類としてわれわれの考察になお残されている最後のものは、ただひとつの客観だけを含む。すなわちそれは、内官の直接的客観、つまり意志の主体である。これは、認識する主観にとっての客観ではあるが、ただし内官に与えられるだけであり、したがってそれは空間の内にではなくただ時間の内に、それも、これから見てゆくように、著しい制限を伴って現れるにすぎない。(93)

 

・認識主観

主観は、意欲するもの、すなわち自発性としては認識されるが、しかし認識するものとしては認識されない。というのは、表象する自我、つまり認識主観は、あらゆる表象にとっての不可分な相関者としてそれらを制約する側にある以上、決して自らが表象になったり客観になったりすることはできないからである。それゆえ、認識するということを認識するのは不可能なのである。(93)

 

・意欲の主体

「私は意欲する」は総合命題であり。しかもアポステリオリに与えられている。すなわち経験によって、この場合なら内的経験によって(つまり時間の中でのみ)与えられているのである。しかし、この命題は誰の意識においても、あらゆる経験命題のうちで最初の(ӓltest)ものである、ということはまず間違いない。まさにこの命題とともに認識が始まるのである。したがってその限りでは、意欲の主体はわれわれにとって一つの客観であると言えよう。(100)

 

・統括的意志作用

これも比喩的になるが、<時間の外にある統括的(universal)意志作用>という呼び方が、おそらく、私の考えていることをよりよく表すことになろう。時間の内で生じる行いはすべて、統括的意志作用が外へ歩み出ること、すなわち現象することにほかならない。カントは、統括的意志作用が持つこの外へ歩み出るという性格を叡知的精確(おそらくこれは非叡知的性格と称したほうがより正しいであろう)と名づけ、それと経験的性格との区別、ならびに自由と自然との関係全体について、『純粋理性批判』[B版]の五六〇頁から五八六頁で論じているが、それは私の考えでは、人間の洞察の深さがなしえた、比類なく、きわめて賛嘆すべき傑作である。シェリングの『著作集』第一巻の四六五頁から四七三頁までは、それについての非常に尊重すべき注釈的叙述となっている。(106-7)

 

・意志が認識作用に及ぼす因果性

意志は、ただ直接の客観[身体]に対して、したがって外界に対してのみ因果性を有するだけではなく、認識主観に対しても因果性を有する。すなわち意志は、認識主観にかつて現在したことのある表象を強制的にくり返すことができるし、そもそもあれこれのものに注意を向けたり、一連の任意の思想を呼び起こしたりすることも強制できるのである。(111)