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松田智裕『弁証法、戦争、解読 前期デリダ思想の展開史』

 本書は1950年代~70年代初頭にかけての「前期デリダ」の思想展開を検討し、「戦争」という概念が主題化されていった過程を明らかにするもの。デリダおいて問題となる「戦争」は、私たちが通常思い浮かべる「武力衝突や政治的な緊張関係」(10)を指すものではない。参考までに、デリダにおける、そして本書における「戦争」の語られ方を見てみよう。

それ(=デリダにおいて問題となる戦争)は、ヘラクレイトスにまで遡る生成の原理としての「ポレモス」にかかわる。…ヘラクレイトスにおいて「ポレモス」は…統一と対立の相互性に基づいた生成の動的原理との関連で登場する言葉である。(10)

デリダにとって「戦争」は「関係性」の問題として提示されているという点である。…デリダ戦争論はまずもって「関係性の哲学」である。ところで彼にとって「関係性」の問題は、ある事象の理解がつねにさらなる理解の余地を残し、新たな理解へと不断に開かれていく解釈の再構成の問題である。(15)

彼の戦争論は、理解の相互的な歴史的関係性の力動性に向けられたものなのである。(16)

初期のデリダは「弁証法」という概念を「軋轢」や「対立抗争」のイメージで思考しており、この点で、「弁証法的軋轢」を後年の「戦争」概念の端緒と見なすことができる。(18)

彼にとっての「弁証法的軋轢」が、後の「戦争」概念と同様、そのつど問いの余地を生じさせる理解の多元的生成の問題と不可分であったことがわかる。(22)

「戦争」もまた「暴力と形而上学」においても『ハイデガー』講義においても、「彷徨」や「隠喩」と同様、「存在の歴史」を解釈するうえでの重要論点として取り上げられている。(212)

六〇年代後半のデリダにおいて「遊戯」と「戦争」は、力動的な相互連関の運動である「差延」の言い換えとして登場する。(254)

「遊戯」や「戦争」としての「差延」とは、理解が別の理解とのネットワークへと開かれていくような解釈の再構成の働きを意味する。(256)

デリダは様々な要素が互いに関係しあう力動的な相互連関を「差延」と呼び、その相互作用のあり方を「戦争」や「闘争」として思考しようとしていた。こうした「戦争」の問題をこれまで見てきた遊戯論とあわせて理解するなら、デリダが諸力の争いとして描く「差延」の運動とは、伝承された既存の概念との連関のなかで成立している私たちの思考が、それを引き継ぎながら別の布置のもとに位置づけ直し、それをさらに別の思考…が引き継いでさらに再構成していくような、理解と理解の歴史的かつ無際限なせめぎあいの運動であると言えよう。(280)

「戦争」をめぐる五〇~六〇年代後半のデリダの思考の歩みは、たとえそこに参照先や言葉遣いに違いが見られるとしても、さらに思考される余地をそのつど生みだし、それが私たちの理解や解釈を不断に更新していくというひとつの事柄に向けられていると言えるだろう。(288-9)

デリダの「戦争」概念に注目するということ自体、私にとっては興味深いものであり、さらにそれを「政治的-倫理的展開」を果たした「後期デリダ」ではなく、「前期デリダ」に焦点を絞って議論を展開している点が刺激的であり、勉強になる。また、「前期デリダ」だけではなく、「後期デリダ」、例えば戦争概念について議論されている『友愛のポリティックス』等も読み直してみようと思った。
 松田さんは「デリダにとって哲学という営みは注釈や読解と不可分な関係」にあり、「それゆえ、デリダの思想を理解するためには、彼が読んだテクストとそのテクストを読むために参照されている二次文献を彼とともに読み、彼がなにを考えようとしたのか、その足跡を一歩一歩追跡しなければならない」(29)と指摘している。そして、まさにそれを実践しているのが本書である。私はこの「実践の書」を読むことで、デリダのテクストやデリダが読んだテクストをさらに読みたくなった。そのような欲望を刺激する「力」を持つ一冊であり、デリダに関心を持っている方に限らず、読書好きにオススメしたい一冊だ。

弁証法、戦争、解読: 前期デリダ思想の展開史

弁証法、戦争、解読: 前期デリダ思想の展開史