yamachanのメモ

日々の雑感や文献のメモ等

小泉義之・立木康介編『フーコー研究』

 「集大成にして最前線」と帯文にあるように、フーコー研究者に留まらない総勢30名の執筆者が、フーコーの思想を多角的・総合的に論じた圧巻の一冊である。
 「Ⅰ 安全/科学/セクシュアリティ」、「Ⅱ 啓蒙/批判/主体」、「Ⅲ 言語/文学/芸術」、「Ⅳ 狂気/人間/精神分析」、「Ⅴ 運動/権力/(新)自由主義」、「Ⅵ 真理体制/統治性/資本」、「Ⅶ パレーシア/神/倫理」という7部構成からなるが、それぞれのテーマ及び取り上げられている著作等は相互に連関している。そのため、関心ある分野だけではなく、全ての章を読み通すことに本書の意義がある。
 また、執筆者それぞれの論考のスタイルや長さも多様であり、読者を飽きさせない。例えば、王寺賢太「二重化するフーコー-一九六一年の人間学批判とヘーゲルハイデガー、カント」は52ページで最も長く、千葉雅也「生き様のパレーシア」は最も短く5ページである。もちろん、千葉氏の論考は短いからといって内容が薄いのではなく、むしろ、フーコーの「生き様」から語られるパレーシア論は刺激的であり、他の論考を読む上でも参考になる。
 そして、本書の注目すべき点の一つとして、フーコーのカント論、殊にカントの啓蒙論がある。「まえがき」で編者の一人である小泉義之氏は、『フーコー研究』が「幾つかの新たな説得的な知見をもたらしている」として次のように語っている。

カントの啓蒙論は、一七七八年公示のベルリン・アカデミー懸賞論文募集を前史とするものであったが、その募集の論題は、「新しい誤謬へとそそのかされるにせよ、また古い誤謬に縛り付けられているにせよ、なんらかの欺瞞は、民衆にとって、役立つものであろうか」というものであった。…ヘーゲル精神現象学』によるその論題の要約、すなわち「民衆を欺くことが許容されるかどうか」を考えてみても、その現代的な意義は明らかであろう。そのとき、生涯にわたって、主体・真理・権力の問題を追及し続けたと自任していたフーコー啓蒙論の創見が、俄然重要性を帯びてくることになる。繰り返すなら、本書は、そのような探求の礎となるものである。(ⅵ)

啓蒙論は「主体・真理・権力の問題」、つまりはフーコー思想全体に関係する。また、佐藤淳二「フーコーと啓蒙-自己へのオデュッセイアの途上で」や、箱田徹「真理体制概念からアナーキーな権力分析へ-フーコー新自由主義論をめぐる論争を超えて」で議論されているように、啓蒙論は統治の問題-2021年現在、我々が直面している大きな問題の一つと言えよう-である。
 『フーコー研究』は、フーコーが研究した幅広い分野を、フーコーの「生き様」を、そしてフーコー思想の全体像を理解するために必読の一冊である。また、こうしてフーコーを読み解くことは、我々が生きる現代社会を明るみに出し、我々一人ひとりの「生き様」を問い直す契機を読者に与えるだろう。