yamachanのメモ

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堀田義太郎「差別とは何か」(清原悠編『レイシズムを考える』)

 「差別ではない、(合理的な)区別である」という言葉を聞くことが少なくない。このような言葉に対して、「その発言自体が差別的である」という批判の声もある。こうした自覚なき差別発言に抗していくためには、これらの発言を批判する側も「差別とは何か」ということについて、理解を深めていく必要がある。そこで参考となるのが、堀田義太郎「差別とは何か」である。
 まず、差別は区別の一種として、「差別とは、本人が選択できない、または選択が困難な特徴に基づいて人々を区別し、その人々の一部に対して不利益を与える行為である」(108)と定義されている。しかし、このような定義では、縁故採用による処遇などが典型的な人種差別や性差別と同じ差別と解釈されることになる。つまり、この定義は「広すぎる」のだ。
 一方で、「本人が選択できない、または選択が困難な特徴に基づいて人々を区別」し、「その人々の一部に対して不利益を与える」という二つの基準では説明できない事例もある。差別の対象者が不利益を経験しないケースや、宗教的マイノリティに対する差別がその例である。つまり、先の定義は「狭すぎる」ということにもなる。
 そこで、「差別が歴史性を伴う日常的な相互行為と関係性を前提」(116)にしていることを踏まえて、「差別とは、社会的にさまざまな文脈で不利益または劣等処遇の理由にされている、または歴史的にその理由にされてきた特徴や属性に基づいて、対象となる人々を他の人々と区別し、その人々を不利に扱う行為である」(117)といように、最初の定義を改変している。また、差別の対象者が不利益を経験しない「当人が認識できない差別発言」(117)のような事例があることから、「見下し」や「劣位化」という点を加えて、このように差別を再定義している。

差別とは、社会的にさまざまな文脈で不利益または劣等処遇の理由にされている、または歴史的にその理由にされてきた特徴や属性に基づいて、対象となる人々を他の人々と区別し、その人々を不利に扱う行為、または見下し劣位化する行為である。(118)

堀田氏が述べているように、ある行為が不当な差別か否かは、「歴史的・社会的また文化的な文脈を背景として、類似した諸行為の「セット」ないし「シリーズ」に分類されるか否かによって決まる」(118)のだ。
 そして、以上のような「差別とは何か」という議論を踏まえて、ヘイトスピーチに対して次のように言及して論文を締め括っている。

差別扇動としてのヘイトスピーチとは、当のマイノリティに対して、過去になされてきた、また現在行われつつある、そして将来行われる可能性のある、その人の特徴に基づく不利益扱いや劣位化処遇を総体として肯定し推奨し、正当化する行為である。そして、ある表現や言論が「差別の扇動」になるかどうかは、発話者や表現当人の意図や動機とは独立して(また原理的には標的とされる人の具体的な不利益や害の大きさからも独立して)、社会的な文脈を前提として、その内容と公示の仕方によって判断される。(122-3)

 冒頭で取り上げた「差別ではない、(合理的な)区別である」という時、その「区別」は歴史的、社会的、そして文化的な文脈を踏まえると「差別」ではないか、「合理的な区別」とすることで「差別」を正当化しているのではないか、「差別」を無くしていくために、私たちは問い続けなければならない。差別に抗していくための重要な一歩となる論文である。