yamachanのメモ

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デヴィッド・グレーバー『民主主義の非西洋起源について-「あいだ」の空間の民主主義』

 大著『負債論』の著者であり、近年では「bullshit jobs」という概念を提示して注目を集めているデヴィッド・グレーバーが民主主義を論じた注目すべき一冊。邦訳のタイトルと副題からもわかるように、本書は民主主義の起源について、そして民主主義が成立する「あいだ」の空間について、具体的な事例を交えつつ議論を展開している。つまり、民主主義は特定の文化や文明に固有のものではなく、「文化と文化のあいだに開いた錯綜した空間のなかから」(68)生じるものだ、ということである。
 グレーバーは民主主義的実践について、誰もが同意を示すものとして以下のことを挙げている。

垂直構造ではなく水平構造の重要性。発議は相対的に小規模で、自己組織化を行う自律的な諸集団から上がってくるべきものであって、指揮系統を通しての上意下達をよしとしないという発想。常任の特定個人による指導構造の拒絶。そして最後に、伝統的な参加方式のもとでは普通なら周縁化されるか排除されるような人びとの声が聞き入れられることを保証するために、何らかの仕組みを-北米式の「ファシリテーション」であれ、サパティスタ式の女性と若者の会議であれ、無限に存在しうるほかの何かであれ-確保することの必要性。(9)

グレーバーの発想の背景にあるのはアナキズムであり、「アナキズムと民主主義はおおむね同じものである」(10)とまで主張する。それゆえ、グレーバーにとって、我々が現在直面しているのは「民主主義の危機ではなく、むしろ国家の危機である」(15)ということとなる。
 このようなグレーバーの議論について、訳者である片岡大右氏は、訳者あとがき「「あいだ」の空間と水平性」で、日本においては「政治的議論の場を大いに活気づけることはないのかもしれない」(173)と語る。しかし、グレーバーのラディカルな国家批判や民主主義実践に関心を持つ人は多く、それが一つのムーブメントになりうるのはないか、と思う。それは「水平性への切実な思いを共有する」(178)人は決して少なくない、そのように思うからである。
 僕自身、アナキズムの思想家ではないが、先に引用した民主主義的実践は、僕が考える自治の実践とも重なるものであり、大いに同意する。一方、アラン・カイエも「フランス語版のためのまえがき」で指摘しているように、グレーバーは「権力」の問題が十分に扱いきれていないと思う。民主主義は水平構造だけではなく垂直構造にも関わるものであり、そこには権力が関与している。権力の定義の仕方の問題なのかもしれないが、自治のそして民主主義の活性化のためには避けて通れない問題であり、グレーバーから与えられた宿題として今後考えていきたい。