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明戸隆浩「差別否定という言説-差別の正当化が社会にもたらすもの」(清原悠編『レイシズムを考える』)

 論文のタイトルにもあるように、明戸氏は「差別否定」いう概念を提起し、そのメカニズムと対応を検討している。「差別否定」は、「直接的差別」が行われた後で、それを否定したり、正当化したりするもので、「直接的差別」を引き起こす「差別扇動」とあわせて、「直接的差別」を支えるものである。

 差別否定には、「事実の否定」と「責任の否定」、「自己弁護」と「犠牲者非難」という区別がある。そして、「事実の否定」の下位分類として「(協議の)否定」と「過小評価」、「責任の否定」の下位分類として「正当化」と「弁解」があり、これらは「自己弁護」として位置づけることができる。また、「犠牲者非難」には、「責任の否定」としての「非難」と、「事実の否定」として「転化」がある。

 著者はこれらの図式を用いて、「現在進行形」の事例と「歴史」にかかわる事例を検討している。そして、「差別否定」のパターンはほぼ同じであり、また「正当化」は「非難」を伴うことが多いこと、「非難」が最も多いことを指摘する。つまり、「歴史否定」と「レイシズムの否定」は異なる文脈で議論されることが多いが、これらは別のものではないということである。

では、このような「差別否定」に対して、どのような対応ができるのか。著者は、「「差別否定」をあらためて「ヘイトスピーチ」の議論に位置づけなおす必要がある」(265)として次のように述べる。

差別否定は確かに個別の事例について見た場合には直接的差別の「事後」に生じるが、それが広く知られる形で行われた場合、「仮に差別を行っても言い逃れをする余地は十分にある」というメッセージを社会に与える効果をもつ。こうした言説は、「○○人を叩き出せ」のような「わかりやすい」扇動ではないが、差別のハードルを下げることで、結果として差別扇動と同じ効果を持つことになる。(265-6)

 「わかりやすい」扇動とは異なる「差別否定」の言説に対して、「「差別否定」の言説が差別扇動としてかなり大きな役割を果たしている」(266)という著者の指摘は鋭い。日々生じている「差別否定」のメカニズムを学ぶこと、これもまた「差別に抗する」実践の一つと言えよう。